« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »

「カルミナ・ブラーナ」を聴く

東京都交響楽団・小泉和裕指揮・澤畑恵美(ソプラノ)・経種廉彦(テノール)・萩原潤(バリトン)・栗友会合唱団・武蔵野音楽大学室内合唱団・栗山文昭(合唱指揮)・東京少年少女合唱隊・長谷川久恵(合唱指揮)・矢部達哉(コンサートマスター)、で、

モーツァルト:交響曲第40番
オルフ:カルミナ・ブラーナ

を聴く。

「カルミナ・ブラーナ」の冒頭は以前、「黒蜥蜴」で、黒蜥蜴の巨大アジトがせりあがってくる場面に使われていて大変効果的だった。
これとリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」とを、私は世界二大出オチ名曲と呼んでいる。いや、全体も素晴らしいのだが、ただ、冒頭部分のフレーズ(いずれの曲も最後にもう一度出てくるが)のインパクトが強すぎてともすればそこばかり記憶されやすいということによる。
この日の40番、「カルミナ・ブラーナ」、ともにとてもよい演奏であったと思う。

| | トラックバック (0)

BLOOD-C(TV放映分)を見たけれど

「BLOOD+」がとても優れていたので、今回、機会あって後続作品の「BLOOD-C」全12回を見たわけだが。




まあそういうことで、「大魔神カノン」に並ぶ映像作品であった。
この後そのまま劇場版に続くらしい。

「BLOOD-C」も「大魔神カノン」も、どちらも先行作が名作であること、その人気によりかかっていること、初めからかなり予算をかけていること、が共通で、これは視聴者としての全くの想像だが、慣例重視の判断によった二例ではないかと思う。

こういう特撮・アニメに関しては、純文学等と違い、確かに鑑賞者ははっきりとよしあしのわかる、鑑賞眼のある受け手がほとんどであると思う。彼らがおもしろいと言えば確かに名作であり、つまらないと言えばそれはやはり価値が低いのである。「通」や専門家にそのよさを啓蒙してもらわないと価値がわからないという特殊化した世界ではない。

ならばだ、一般視聴者からその都度任意に依頼する千人ほどにモニターとなってもらい、まず最初の数回分についての判断を仰いでからその後を制作するというようなシステムもあってよいのではないかと思った。

| | トラックバック (0)

突っ込み文化の始まり

1970年代までは真剣に何かやる他者の滑稽さを笑うということはそれほど多くはなかったような気がするが、ある時期から、スポ根漫画あたりのあまりの非現実的な根性ぶりを「なんだよこれ」と突っ込むことが増えたように思う。
おそらくそれはひとつの例で、80年代になると文化全体がだんだんと、他者の、外部の見えていない無自覚さ・愚かさをチェックするような意識になっていった。
逆に、他者から笑われないよう意識的に先回りするような態度も増えた。
こういう中でニューアカとかポストモダンとかが、さかんに前時代のもっさりしたイケてなさを馬鹿にし、それを鵜呑みにした人々が特定の、つまりはポストモダン系のリーダーが馬鹿にするようなジャンルや人を、安心して馬鹿にしていたように記憶する。
それがどこから始まったかと考えると、やはり、70年代のSFの思考がもとになっているのではないかと思う。すべてを相対的に見てみよう、という画期的な意識の改革が、このジャンルによって始まったのではないか。
ところが80年代になるとそのすべてに対して相対的に、という部分を忘れたあるいは捨て去った人々が、流行としてのポストモダン言説に踊らされた、というのが今から見えるところで、とりわけ、何人かの「ポストモダン」リーダーなどは、古い「純文学偉い/大衆文学は駄目」の、全然相対的でない序列からSFとそこに属する作家を軽蔑したりしていた。今から見ると、ではあるが、こういうところにこそ突っ込むべきであったのだなと思う。
が、すべて終わってから思うことで、ミネルヴァの梟は夕刻になってようやく飛び立つのであった。

| | トラックバック (0)

短歌の真剣、俳句の突っ込み

ミステリ: 馬鹿馬鹿しいトリックでも建前上は真剣な表情で書く → ボケ
SF: そんな馬鹿な、があたりまえのホラ話を意識して書く → 突っ込み

という印象を話していたら、身近にいる歌人が

短歌 → ミステリ的真剣さ ・ ボケ
俳句 → SF的批判意識 ・ 突っ込み

という説をたてた。あたっているような気もする。

| | トラックバック (0)

ミステリのその気・SFの突っ込み

自分はSFよりはミステリの方から入ったが、現実内で成立するトリックというには遠い物語ばかり読んだと思う。1970年代は社会派推理小説よりも古い探偵小説が続々と復活した時期で、かつまた日本SFが全盛を迎えた時期と記憶する。
変格ミステリの非現実とSFの非現実とは全然質が異なって見えた。どちらも想像の行き着く先であるはずなのだが、ミステリには物質的限定内という条件とともに常に猟奇と秘密が重要であったところが大きいか。
そこへ全くあからさまに暗い話も翳りなく語ることの多いホラ話の延長のようなSFが文化的衝撃ではあった。それは悲劇に慣れていた者が初めてコメディを知ったようなものかとも思う。
そういえば舞台のほうは見ていないが、三谷幸喜原作脚本・星譲監督の映画「笑の大学」は名作だった。「この非常時に」とコメディなど一切認めなかったはずなのにいつの間にか笑いに魅惑され取り込まれてゆく検閲官役の役所広司の「笑いながら怒る人」ぶりが最高である。
70年代日本SFは、たとえば荒唐無稽な猟奇の世界に「あれ、これって他人から見るとバカ?……」という突っ込みを入れながら読む態度を教えた部分があるのではないか。
その後も自分は変格ミステリを「その気になって読む」喜びを捨てているわけではないが。

| | トラックバック (0)

おっとりということ

「おっとり」単独で使うときは、のんびりした、とか、鷹揚な、とかだが
「おっとり刀」だと取るものもとりあえず、急いで、の意味だから全然逆になる。
漢字で「押っ取り刀」と書かれると納得するが、発音だけだと同じに聞こえる。
というような、最終的な発音が同じなために、異なった語源の語が同一視されている例って、ほかにもありそうな気がするが、今思いつかない。
こんなことを考えていると今、自分の用いる語が本当に正確なのか、自信がなくなってくるのであった。

| | トラックバック (0)

日大藝術学部文芸科・幻想小説論テキスト

なんだか提出期限がひどく近かったが昨日、決定案を提出した。
今年はテキストを決めてみた。

ちくま文庫・東雅夫編『世界幻想文学大全 幻想小説神髄』

を使用の予定。昨年言及した作品もいくつか収録されている。
ただ日本作家の作品がないのでその点を補うことになる。

| | トラックバック (0)

大ロマンの復活

っていうシリーズについては、ここでは何度か書いてたかも知れないが、今改めてよいものと思う。
版元の桃源社は今はもうないはずだ。不動産会社かなんかの名前で同じのがあったが同じ会社の別分野経営なのか完全に別会社なのか知らない。
国枝史郎と小栗虫太郎はここが復活させなければ読めなかったでしょう。
小栗虫太郎の「ほぼ全集」である『小栗虫太郎全作品』もこのシリーズで出た本を集めて版を変えたものだ。
本当はもう少し完全なものが欲しいところだが私はこの全作品も全部は読んでいないからまあそこはよいとして。
国枝史郎は今、大判の全集が未知谷から出ていますね。値も高い。ところがこの全集の完結後、さらに拾遺的に五冊かそこら、同じ大きさの本が出ていて、どんなけあるんだ、国枝。
ともかくこれだけ完全網羅された国枝史郎は、死後だが幸せな作家と言える。
他に「大ロマンの復活」から読まれ始めたのは海野十三と香山滋かな。どちらも三一書房からこれまたいい感じの全集が出ている。ただし三一書房もまた、活動停止なのか倒産なのかわからないが、今はほぼないのと同じ状態だと思う。厳密にどういう状態と言うかは知りません。本はよく古本屋で見かけるし、かなり安くなっているから、そろえるなら今だ。
桃源社版「大ロマンの復活」もよく見かけるが、これ、全巻でいったいどれだけあるのやら、横溝正史もあったし久生十蘭も橘外男も野村胡堂の捕物控以外の探偵小説もあった。
という1969~70年あたりの回顧でした。

| | トラックバック (0)

ロンドン交響楽団演奏会で

昨日、ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン交響楽団、マリア・ジョアン・ピリス:ピアノ、でベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番、ブルックナー:交響曲第9番を聴いたが、私の座るひとつ隔てて向こうの席の年配の男がときおり手を動かして指揮真似をしやがる。これ、周囲への悪質な鑑賞妨害なので決してやるべきではない、と良心的なクラシックファンは皆こころえていることだ。
が、それを私の隣の若い人が、隣の指揮真似が始まるとすぐ手で制してくれて、それでもひとつ向こうの奴はときおり手を動かそうとしていたが、ともあれ、隣の人のおかげで気が散って腹立たしいと思えるような事態はほぼ避けられた。

ありがとう、若い人。

| | トラックバック (0)

« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »