『人外領域』のために(5)
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「街を歩いていてこういうことを考えたことはありませんか? あなたの周りは皆、見ず知らずの他人。これからどこで何をしようと誰にも気兼ねはいらない。
しかしその反面、あなたのそばにどんな人間がいるかわからない。
今あなたの隣に恐ろしい妄執に取り憑かれた殺人鬼がいるかも知れないのです」
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人外【にんがい】というと人倫に外れた人でなし、あるいは人交りのならぬ下賎な輩【やから】と解されそうだが、この言葉にはもう少し自分で自分の優しさ悔しさを身に沁みて知っているニュアンスがあり、誤って地上に生を承【う】けた思いの強いひとほど共感する言葉であろう。(創元ライブラリ版「中井英夫全集」第6巻 エッセイ集『地下を旅して』所収「人形への惧れ」より)
中井英夫はアンチミステリ『虚無への供物』や幻想小説集『とらんぷ譚』で知られるが、その最初の作品集に推薦文を寄せた澁澤龍彦によって、ゴシック・ロマンスには一家言ある人、としても紹介されていた。
前掲部に続けて中井は「ここにいう優しさもまた原義の身の細る思い、ないしは恥ずかしさ、みっともなさをいう」と加え、さらに江戸川乱歩の『影男』冒頭あたりに用いられたその語を引用している。それはボロをまとったアル中の五十男によって発される言葉だ。
「ほっといてくれ。おれは人外なんだ。人外とは人間でないということなんだ。お前さんにゃ分かるまい」
(中略)
「そこいらのみんな、聞いてくれ。人外というものを知っているか。こにいるおれがその人外だ。人間の形をして人間でない化けもののことだ」
……悲しくもおぞましい「人外」であることを、そうでない普通人の皆の衆に訴えかけてどうなるというのだろう。ここではただ、どう見ても単に社会から落伍した凡人でしかない男が自己の価値をこういう負の形で主張しているだけにしか見えず、しかも、その価値などあなたたちにはわかるまい、という言葉を他者に聞かせようとするのはただの甘えでしかないとも言える。もちろん乱歩はこれを都会の一風景として書き添えただけで、読者にこの男の価値を認めさせようとしているわけではないが、しかし、だとすればわざわざ「人外」と言わせるのは何か過剰で、そこには乱歩の、「人間」を降りてしまおうとする者への密かな共感があってのことだろう。つまりこの言葉は、いかに普通らしく暮らしていても、実のところヒューマンなものに背を向けたいと感じてやまない「人でなし」志向である自身の、他人の言葉を借りての自覚なのだ。人形愛をテーマにした『人でなしの恋』の作者らしく、である。なお、その題名にある「人でなし」は一般に言われる「薄情・人としての値打ちもない悪人」といった意味ではなく「人間の世界の外に目を向けてしまう異端者」を意味していた。
中井英夫の言葉に戻れば、これは乱歩が脇見をしながら語った片言を真正面に見詰めて語り直したものと言える。だがこれさえも、声高に語れば乱歩描くアル中の五十男と同じ矛盾を演じてしまう。自らを、人の形をしながら人でないと感じるにしても、それは秘められた内なる悲哀としてあるのみのはずで、他者に向けて主張する理由はない。むろん中井はそのことがわかっているから「身の細る思い、ないしは恥ずかしさ、みっともなさ」と言い添えているのだ。
「人外である自己」を感じる、とは決して他者に誇示できることではなく、ただひたすら何かを欠落させた「人交はりのならない身」(これも人外の心を多く描いた人・三島由紀夫『仮面の告白』より)である自己をうとみ、一方でそれにもかかわらず自分も人間の限界内にしかないことを恥じ、絶望する心の動きである。
まずあるのは自分が十全な人間になれないことへの無念の自覚だ。だが同時に、ただ人間であるだけでは満足できず人間以上の何かを求めてしまう自己のどうしようもなさへの嘆きをもそこに見たいと思う。後の方の自覚からは人間的ななまぬるい情感と感情吐露を厭い、鉱物や機械のような無感動に憧れるといったドイツロマン派的想像が生まれてゆく。
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小説を書かせれば内容の面白さはともかく、珍妙な文章にはならない学生に、批評的文章を書かせると、打って変わって「のである」の連続する、幼稚で読んでられない叙述になることがある。
彼らが悪いというよりも、彼らに、ごく日常的に批評的文章を読ませないでいる環境がいけないと思う。要は慣れだからだ。
小説的・エッセイ的文章はいつでも目にするし大抵の人はその書き方をどこかに記憶していて、自分が書くときもそれに近いやり方を採用できる。
だが評論、とか批評、とかを要求されると一気に慌ててしまい、どこかで憶えている「固くて重々しそうで偉そうで、何か言うたびに『である』とか『ゆえに』とか普段全然使わない言い方をして、条件節を増やす、学者が語るような口調」を懸命に真似ようとするが、憶えている分量があまりに乏しいので、下手でみっともない、賢ぶって失敗する文体となる。
これ、レビューでもときおり見かけますね。
それというのも、批評という行為が、非日常的で「ちょっと偉そうな」ものととらえられているからで、批評を書くとなると、「これから私は批評をするのだ」という覚悟とともに、「これから自分は高いところから物言うぞ」という威を文章語らしい文章語で示さねばならないと思われているということだ。そうしないとできないほど、多くの人が批評に慣れていない。もともと批評があたりまえの意識行為だと思われていない。日常語での批評を想像できないでいる。
しかし、たとえば行列に割り込む無礼者に、相手がいかに間違っているかを告げるという行為だって批評なのだし、特定のステロタイプな先生的言い方にしなければ批評にならないと決め込んでいるその姿勢が、日常からさらに批評的意識の持ち方を遠ざける、とも思った。
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車窓から見ただけなので正確ではないかも知れないが、要点のところは違っていない。以下。
JR大久保駅から見えるところにエステか何か、美容関係の大きな広告があって、それには「ビフォー」「アフター」でそれぞれ、顔写真があった。
アフターは確かローラではなかったかと思う。
それはよい。綺麗な例として示せる顔の女性タレントや女優であればよいわけだ。
問題は「ビフォー」である。具体的に示すとなると、とても醜い容姿の女性の顔を用いなければならないが、それはいろいろな意味で許されにくい。
ということで考えた末であろう、その広告の「ビフォー」部の写真にはムックの顔が大きく使われていた。ガチャピン・ムックのムックである。もしゃもしゃの赤いモップに目と口のついたようなあれである。
見る方としては「んなバカな」だが、意図ははっきり伝わる。ここへ来てケアを受ければムック級でもローラ級になると言いたいのだな、と。そのフィクションを加えながらの広告のあり方から、ひとつには馬鹿馬鹿しいがなかなかの「逃げ」だなと思い、もうひとつには難しい業界だなとも思った。
美醜問題はこのくらいの具体性の排除があってようやく安心してものが言えるということだ。
(~街の博物誌2013)
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吉祥寺の書店・ブックス・ルーエの二階に「サブカル」という棚があって、最近は「女子もの」がいくつか集まっている。『アラサーちゃん』『だって女の子だもん』など。
その中、雨宮まみの『女子をこじらせて』の隣にボーヴォワールの『娘時代』が並んでいた。
よくわかってる、とも言えるが、よくわかってすぎ、てかボーヴォワールってサブカルだったのか。
(~街の博物誌2013)
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