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『人外領域』のために(15)

 さらわれる少女を見た。
 白い優美な面立ちが悲痛に歪んで声にならない救いを求めているのだった。
 声にならない? そうではない、言葉は発されたのだ、聞こえなかっただけなのだ、距離が音を消した。今まさに大きな長い腕が、黒く襞の多い布で娘を包み込むその瞬間を、紫宮透【しぐうとおる】は目撃した。
 そして手出しもできないまま、周囲にそれと知らせることもできず、ただ眼にとどめたことを、その苛立ちを透は忘れ難い。数キロも離れた先の出来事だったからだ。透は、それを双眼鏡で遠望していたのだった。

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『人外領域』のために(14)

 壁には苦しみがしるされている。
 その古い建物は気の遠くなるほど長い時間をかけて計画性も節操もない増築を繰り返したせいで、無数の壁が秩序なく入り組みねじれ、誰も見たことのない醜い怪物の胎内を思わせる奇妙な空間を造りあげていた。ところどころは記憶の縁から滑り落ちて消え、虫食い布のような斑な暗い穴をのぞかせている。入ってはいけない。そのような忌まわしい場所へ、足を踏み入れてはいけない。けっして。ホラームービーのヒロインにはそれがわからない。惹き寄せられ吸い込まれるように建物の中に、気がつくと爪先はもう黴くさい床板に降ろされている。
(川口晴美「壁」)

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『人外領域』のために(13)

 月が出ている。木星がひときわ輝いている。玲たちを乗せた自動車は東京で最も暗い所を目指し、疾走していた。

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『人外領域』のために(12)

體育館まひる吊輪の二つの眼盲【し】ひて絢爛たる不在あり
婚姻のいま世界には數知れぬ魔のゆふぐれを葱刈る農夫
五月來る硝子のかなた森閑と嬰兒みなころされたるみどり
復活祭【イースター】まづ男の死より始まるといもうとが完膚なきまで粧【けは】ふ
薔薇、胎兒、欲望その他幽閉しことごとく夜の塀そびえたつ
                       塚本邦雄『緑色研究』(一九六五)

 完全な自由詩などといったものはありえない。その自覚からか、故意に自由を制限した定型詩を選び、そこにあらんかぎりの狂言綺語を用いて言語だけの異世界を構築していった塚本邦雄は一時期、その徹底した実人生嫌悪・実社会嫌悪からであろう、敢えてする、時代への反動主義者としてふるまっていたかに見える。
 それは戦前戦中の国家主義を激烈に憎悪するとともに敗戦後的な平等観にも背を向け、卑俗な日常に、選ばれた存在の栄光と悲惨の影だけを微かに映し出すことで束の間、形而上学を夢見させた。
 これだけならば十九世紀末的なロマン主義の再現であったかも知れないが、子規以降の近代短歌というジャンルにとっては、絢爛たる人工の述懐だけを演じてみせることがおよそ初めての試みだったのだ。歌われる家族、友人、そして自己、愛人、いずれも生身とは区別され、緻密な銅版画のようにイメージされることを喜ぶであろう陰影深い世界で言葉に戯れるその人の技を、反動と呼ばず故意に「前衛」と決めたのは塚本が登場した一九五一年当時の「短歌研究」誌編集長、中井英夫であった。
 こうして、塚本邦雄は寺山修司と並ぶ「前衛短歌の旗手」とみなされてゆく。だが現在の私から言わせればそれはどの時代にあっても自己の居場所に飽き足りない意識の作り出す高慢な表現の一例である。

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『人外領域』のために(11)

 ウィリアム・デイヴィッドソン 三十八歳。英国グロスタシャーで生。オックスフォード大学出身。学位取得後、三年前来日。新明院学芸財団の招聘により、日英交流文学史編纂事業の監修者の一人として聖頌学院大学に研究室を持つ。週一回の教授は玲の希望による。友枝との対話は英語で行われた。以下日本語訳から。
友枝「お嬢さんがあなたに教わりたいと希望した理由は?」
デイヴィッドソン「私がゴシックロマンス史によって学位を得たことを知ったからだ」
友枝「そうした件についてよく話したか?」
デイヴィッドソン「頻繁に話した。玲自身詳しかった」
友枝「特に興味を持っていた作品はあるか?」
デイヴィッドソン「メアリ・ウルストンクラフト・シェリーの『フランケンシュタイン』は一度テキストに用いた。気に行っていた様子だ」
友枝「その種の文学に関するサークルへの加入とか知人は?」
デイヴィッドソン「ない。本はよく読んでいたが執筆者に接触する場は見たことがない」
友枝「他によく話題にのぼったことは?」
デイヴィッドソン「パブリックスクールでの同性愛関係の有無と見聞について」
友枝「どう答えた?」
デイヴィッドソン「事件に関係しない個人情報であるので答える義務はない」
友枝「了解。あなたの知るところでのお嬢さんの交友関係は?」
デイヴィッドソン「私がこの屋敷にいる間にそうした相手を知ることはなかった。ただ二度ほど、電話で話しているときがあった。どういう相手かはわからない。それより」
友枝「それより?」
デイヴィッドソン「六月の二週目だったと思うが、玲の部屋の西側にある窓を開いたとき、外の樹の枝にそれこそフランケンシュタインのモンスターのような大きな長い顔が覗くのが見えた。午後八時を過ぎた頃で、あたりが暗かったのと、黒いフードのようなものが顔以外を隠していたのとで、どういう者かよくわからなかった。よほど大きな者だった。だが、あっと言って見直したらもう消えていた。玲に言うと『また出たの?』という答えだった。だがそれが何であるか、玲も知らないと言った。そのときは井牟田氏に報告して、少し騒ぎになったが、以後、正体が知れたとは聞いていない。私が知るのはこれだけだ」
 付記
 全員の聞き込みを終えた後、玲の部屋の西側を調べた。該当する窓は二階にある。すぐそばに大きな樫の木があって太い枝をのばしており、不審者はそこから窓を覗き込んでいたと見られる。だがその件の捜査は六月、既に行われており、今再び確かめても新たな事実は出なかった。

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『人外領域』のために(10)

口で申せば人が聞く。心でお念仏【ねぶつ】南無阿弥陀【なむあみだ】。南無阿弥陀仏と引寄せて右手【めて】より左手【ゆんで】の太腹【ふとばら】へ。刺【さ】いては抉【ゑぐ】り抜いては切る。お吉を迎いの冥土の夜風。はためく門【かど】の幟【のぼり】の音 燠【あふち】に売場の火も消えて。庭も心も暗闇に 打ち撒く油流るゝ血。踏みのめらかし踏みすべり。身内は血汐の赤面赤鬼【あかづらあかおに】。邪見【じゃけん】の角を振立【ふりた】てて。お吉が身を裂く剣【つるぎ】の山目前油の地獄の苦しみ。軒【のき】の菖蒲【あやめ】のさしもげに。千々【ちぢ】の病【やまい】は避【よ】くれども。過去の業病【こうびょう】逃【のが】れ得ぬ。菖蒲【しょうぶ】刀に置く露の魂【たま】も乱れて息絶えたり。
(近松門左衛門『女殺油地獄』)

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『人外領域』のために(9)

 今回、衛生博覧会を再現するにあたり、東京文化物保存館の一郭にある、ガレージのような広いスペースを借りた。ただし一般には本日休館とし、会員は狭い裏口から入館する。
 衛生博覧会とは、学術的研究と銘打ち、「疾病予防と衛生の啓蒙」を建前とすることで当局の取り締まりを逃れた、しかし実のところはエログロの展示会である。
 明治時代後半から昭和四十年代前半ころまで日本各地で開催されたといい、伝染病、とりわけ性病が市民生活を脅かした時期ゆえ、発生的には性病そのほかの予防のための衛生思想、そして貞操思想を啓蒙するために始まったものと、興業側の言葉では、そのようになる。
 記録によれば巧妙に警察の主催であるかのように思わせる偽装もあったという。
 しかしそれは病変した性器や身体の模型、あるいは強姦された死体の模型を展示するものであったため、実質、好奇猟奇の興味に訴える見世物として知られた。
 しかも一見公正そうな建前と本音たる劣情のどす黒さとの著しいずれが一層の淫靡さを生じさせる種類の見世物である。
 こうした、史郎ら言うところの「特異文化」は、その本音のいかがわしさから、時代が過ぎるとなかなか実情を正確に知りえないことが多いが、衛生博覧会については幸い、というより奇跡的に、内部の展示が写真として残されている。

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『人外領域』のために(8)

 女賊黒蜥蜴は明智を閉じ込めた長椅子を海に投げ入れさせる。明智の死を確信した黒蜥蜴は暗い海をみつめ深々と嘆きつつ使用人の松吉に向かって次のように言う。

黒蜥蜴  海をごらん。暗いだらう。
松吉  (のぞき込んで)はあ。
黒蜥蜴  夜光虫があんなに光ってゐる。
松吉  ……。
黒蜥蜴  この世界には二度と奇跡が起らないやうになつたんだよ。
(第三幕第一場)

 だが老獪な明智のこと、そこで死んだのではない、逆に黒蜥蜴を追い詰める、しかし明智もまたこの悪の華をこよなく愛してしまっていた。自害した黒蜥蜴を前に、小市民たちへの毒をこめ大見栄を切る。

明智  あなたのものはみんなあなたの手に戻りました。僕の役目はこれでおしまひです。
岩瀬  一家の幸福と繁栄は、みんな明智さん、あんたのおかげだ。この御恩は永く忘れません。
明智  忘れて下さつて結構です。あなたの御一家はますます栄え、次から次へと、贋物の宝石を売り買ひして、この世の春を謳歌なさるでせう。それで結構です。そのために私は働らいたのです。
岩瀬  え?  贋物の宝石だと?
明智  ええ、本物の宝石は、(ト黒蜥蜴の屍を見下ろして)もう死んでしまつたからです。
(第三幕第三場)

 ここに死を隔て、左右対称の見事な相聞が完結する。
(~三島由紀夫『黒蜥蜴』について)

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『人外領域』のために(7)

 七月十四日以来、友枝史郎は、あたかも昭和初年の猟奇事件に挑む明智小五郎とでもいった役割を演じようとしていた。
 すると、自分はと言えば……透はふと思う、……薹のたった小林少年?

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『人外領域』のために(6)

「今度、探偵になったよ」
 いきなり史郎は言うのだった。
 透が塔から現場を目撃したその前日、七月十四日のことである。以前から気まぐれは知っていたが、ほどがある、史郎が常々「事務所」と呼ぶ彼の拠点のひとつにやってきた透は、最初、耳を疑った。

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