少し前に出てました、東京創元社さんのツイートで、ジュンク堂書店福岡店さんでの大規模なリテラリーゴシック・フェアの画像 → ★彡
それと、昨日の、有隣堂町田モディ店さんのツイート → ★ミ
どちらも真ん中に『抒情的恐怖群』を置いていただいているのが心から嬉しい。
有隣堂町田モディ店さんのツイートにある「そんな文学を紹介するこの文庫本が¥1600(税抜き)なのに売れています!!」というところ、注目。特に「なのに」のとこ。
そりゃあベストセラー本とは違うけれども、それでもこういう本としては相当よく動いています、という話は各所でお聞きした。
それはなぜか?
2/28に少しお話したとおり、ここ20年くらい、たとえば「中二病」等の語に代表されるような自意識過剰、嗤われることへの警戒などのために、崇高、極端なもの、異様なもの、臆面もない耽美、陶酔の肯定、などへの志向が、相当抑圧され、マイナー過ぎる形でしか存続していなかったからではないか。
つまり、崇高や非日常、特別を望み憧れる、そんな、確かにいくらか子供っぽい選別への傾向を、ことさら嘲笑し否定する人々からの抑圧が、こういう、本来、人気があってしかるべき方向性を覆い隠してきたとしたら。
その傾向を自覚する人まで無理に目立たないよう「なんちゃって」と「とほほ」と「中二病カコワル」だけで済まそうとし過ぎてきたのではないか。
だが、押し殺されていたものはいずれどこかでその発露を見出す。
このたびたまたま私は、「リテラリーゴシック」の名のもとに開き直って、かつて「異端」と呼ばれたり「耽美」とされたり「美的幻想」とか「暗黒文学」とされたり、等の、たとえば「ポストモダン」の人たちが無視してきた傾向の文学を部分的に復活させたことになる。
それが好評なのだとしたら、このところ皆、渇いていたのだ。こういうものをもっと読みたい人が、本当はたくさんいたのだ。
そこで、長らくの抑圧によってその存在がよく見えなくなっていた読者たちが再び顕在化し、かつ新たな読者が「そうだ、自分はこれが好きだったんだ」と自覚してくださったのだとしたら幸いである。
あるいは、その抑圧のために、本来もっと読まれ喜ばれてしかるべき作品が、あまり書店に出ない状況が続いていたのだとしたら、これを機会にもう一度、「本当に望まれている作品」が多く刊行されるようになったらよいと思う。我田引水はもとよりだ。
これはほんの一例だが、赤江瀑の短編がすべて絶版とはどういうことであるか。
思い込まされによる無意味な抑圧を解除せよ。
もっと、もっと、リテラリーゴシックを。
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