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『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』読書会第三回は3/30(日)

カフェ百日紅で開催予定の『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』読書会
第三回が近づいたのでもう一度  いずれも18:00~

3/30(日) 第三回 第五章「文学的ゴシックの現在」について
4/20(日) 怪談会 ←この日、読書会はなし。次回に延期
5/25(日) 第四回 全章振り返っての感想・これからの展開ほか

第五章は第四章までとは趣が異なり、はっきりと同時代文学になっています。
私としては四章までの延長として、またそこまでの歴史あっての展開と考えて、このような作品を選択しましたが、以前も記しましたように、そこには既に過去を知った者ゆえの表現があるようにも思えます。
その姿勢を否定するにせよ肯定するにせよ、これが現在なのである、と言わねばなりません。

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似てる……かも

最近よく見かける『刃牙道』のポスターの画が、昔読んだムロタニ・ツネ象の『地獄くん』に

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いかがっしょ

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駅前にある裸体像問題

主に戦後から、だと思うんだが、駅前とか公園とか公の空間に芸術を、という趣旨だろう、銅像を立てることが多い。
それがどんな銅像でもよいはずなのに、かつてはほとんどが女性の裸体像だった。
最近、新たに作られる場合は大抵着衣の像が置かれるようになっているようだが、しかし、モデルの女性率は今も高い。
これもそのうちには、動物とか抽象的な立体とかが増えていくのかも知れないが、ただ、既にあるものはよほどのことがないと撤去したり取り替えたりはできない。作者との契約の問題もあるし予算の問題もある。
とはいえ、女性の裸体ばかりを芸術の名の下に設置するという行いは、最近の感じ方からすると、本質的には、差別的だからよくない、ということになるが、そこまでいかない人は「公共の場に裸はどうか」という旧来的なモラルからまず反応するらしい。
ともかく、女性像なのはよいから、なんとかして大きな変更はせずに、ぎりぎり裸体ではないことにしておきたい、という意志が、そこの公共団体の中にあったのだろう、あるとき、こんな処理方法を見た。
大きな駅前だったが、いくつか、同じような女性像があった。一見裸体のようだが、どれもよく見ると下着らしいものをつけている。しかしそれはどうも最初から作りつけられていたものではなく、もともとは裸体として作られ、あるいは長らく裸体のままであったらしい像の、腰と股下あたりに、後から線を彫りこみ、その囲む範囲に僅かな花模様をつけてそこがパンティであると示した、「あとから便宜上下着」であると思われた。
思えば女性像だからこういう「あとづけ」もできるわけだが強烈になんだかなあであった。
(~街の博物誌2014)

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「うそぴょん」の恥ずかしさの度合いがわからない

最近、TVCMで堀北真希がこそっと「うそぴょん」と言っているのがあったように思うが、この「うそぴょん」は堀北真希が言うなら許されるのか? それとも再び「解禁」されたのか?
しばらく前、確かめると2009年だったそうだが、「つい使ってしまう死語」の一位に「うそぴょん」が入っていると聞いて、これがそんな使用をためらうべき死語になっていたなんて全然知らなかったし、そもそもそんなに頻繁に使われていたとも知らず、さらにいつからそれが廃れたのかもわからないまま、「これ、流行おくれだから不用意に使ったりすると恥ずかしい言葉らしい」という記憶だけが残ったものである。
あまり使ったこともないままいきなり「死語だからねっ」と念をおされた感じなので自分として実感がないし、使用の現場と劣化の経緯もほとんど知らないので、今も、そんなに格好悪い、それを言うのが恥ずかしい語、とは感じない。
1990年代中頃に思わず「ナウい」とか「ルンルン」とか言ってしまったとしたら、かなり後で後悔するだろう、というような恥ずかしさ、というようなのに比べると全然なんとも思えなかった。
それで、みんなが恥ずかしいと思ってるならやめておこう、気をつけよう、くらいだったのだが。
そういうことをわかって廃れた言い方を敢えてさせてみるという意図で作られたCMなのだろうか。
私には、「なあんだ、使ってみればやっぱり全然恥ずかしくないじゃないか」という気持ちと、「いや、堀北真希レベル限定だから」という警戒と、どっちを採用すればよいのか、今もわからないままいる。

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あの頃、っていう言い方はしたくないけど

でもいつ頃かって言われると曖昧で、だいたい「幻想と怪奇」とかいわれていろんないい翻訳がたくさん出た頃、そして澁澤龍彦のアンソロジーを見て「おおこれっ」と言っていたような頃、というと、1970年代かなあ。
その頃の本がいったん絶版になってたのが2000年代後半くらいかと思うんだけど、今年、いろいろ復活してますね。話題の『ゴーレム』とか『第三の警官』とか。『アルゴールの城にて』『シルトの岸辺』とか。それと、アンナ・カヴァンの諸作とか『アルクトゥールスへの旅』とか。
日本の作家もそうだといいが。しばらく前だが『神州纐纈城』文庫んなってたし。
であれば『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』もその一環としていいかもね。
きっとまだまだ続くでしょう。そういえば『シュオブ全集』もヤーンの『岸辺なき流れ』完訳も近く出るそうで。←ご存知国書刊行会からね。
よろしいことでござすなあ。

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「あなたの書いたものではあとがきが一番すばらしいと思います」

と、読者に言われて激怒したという平井和正。
この件は読者の傲慢とか作家の傲慢とか言う前に、もし自分だったら、と考えてみていただきたい。自分が作家だったら、自分が読者だったら、の両方から。
さらに言うなら、作家の場合でも、物語優先的な作家である場合と、エッセイに地続き的な作家である場合とでその意味は違う。平井和正はあとがきが達者ではあったものの、飽くまでも物語優先的な作家であることを自負していた。
読者で言うなら、不用意なファンとしてのナイーブな言葉と、予め一読者の気概を示している場合とでも意味は違うが、最初から結論の出ている後者はあまり考えないでもよいと思う。
(文人のエピソード002)

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鬼太郎の二分化

『墓場鬼太郎』アニメ版は二度三度見ていて、『妖奇伝』復刻版や初期の貸本版復刻版も持っているし、「別冊少年マガジン」等に掲載の『墓場の鬼太郎』(たとえばハーヴィーの『五本指のけだもの』をもとにした話とか)も愛読した記憶があるが、『ゲゲゲの鬼太郎』になって妖怪退治に傾いてからはやや興味を失った。
それでアニメーション版『ゲゲゲの鬼太郎』第1シリーズの後、次第に子供向けになっていくのを見てアニメ版からは遠ざかった(が、全部は見てないから内容がダメという意味ではなく、私としてそういう鬼太郎には興味がなくなったということ)。
そこへ随分たってから元祖『墓場鬼太郎』が「ノイタミナ」で深夜放映されると「やっぱりこれだ」と思ったわけだが、最近、『ゲゲゲの鬼太郎』第5シリーズというのを何回か見る機会があって、これはこれで、『墓場』的な原作から完全に離れ、常の決まりごとはあるものの、はっきりとファンタジーの方向性を示していてなかなかよいと思った。

もともと鬼太郎は陰惨で怪奇な都市伝説から生じているようだし、当初は前近代的な差別と怨念が反映したモチーフでもあって、その意味では『墓場鬼太郎』も、それでもかなり洗練された、モダンな怪奇物語で、その怪奇のよさを読むべきものだった。
とはいえそこにヤングアダルト的なファンタジー性は薄く、後に『ゲゲゲ』版として成立する世界はそれを意識して、少年の正義・少年の夢などにアタッチさせるべく書き進められていった部分があるのだろう。アニメ版『ゲゲゲの鬼太郎』もその部分に焦点をあてて進化していったようだ。
だが私の考えではその取り合わせは、なかなか初期の怪奇との折り合いがうまくできにくく、勢いスポコン風味のバトルばかりに力が入った時期があったのではないか。それもあるべき過程ではあるが、そうしたYA方向ではやはり第5シリーズが今のところ完成形ではないかと思えるのだった。
ここでは『墓場』版のようないきあたりばったりでなく、世界構造もよく考えられているし、かつ現在のわたしたちのメンタリティに訴えかける(むろん俗情である)要素を持たせている。それへの批判もできるがそれよりは、鬼太郎とその周辺のキャラクターをここまでうまくアレンジできたことを称えたい。こちらの鬼太郎のちょっとクールなところは案外『墓場』版にも通じると感じられもする(ただし、萌え仕様の猫娘への対応は知る限りこれまでになく、ちょっと村上春樹入ってるか?)。
こうしてダーク鬼太郎とライト鬼太郎という二方向にそれぞれ徹底された映像化作品ができるというのも、やはり読まれ続けた時間の長さ、その息の長さによるのだな、と、最後は水木しげる礼賛。

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「みんな仲良うしたらええのに」

故・塚本邦雄氏が晩年、自身の作った歌誌「玲瓏」の参加メンバーに一時もめごとが起きていると聞いて語ったといわれる言葉。
まったくそのとおりなんだけどね。
(文人のエピソード001)

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文化遺産だし

先日確かめていたら、『暗黒のメルヘン』(澁澤龍彦編)も『幻想小説名作選』(半村良編)も『幻想小説傑作集』Ⅰ・Ⅱ(阿刀田高編)も全部絶版ではないですか。
『暗黒のメルヘン』は数年前にテスキトとして使ったばかりだった。
かろうじて『異形の白昼』(筒井康隆編)だけ現役てか、ごく最近ちくま文庫に入ったばかりであった。
これら全部の代わりに今は東雅夫編のアンソロジーが各種ありはする。
とはいえこういうものは文化遺産であるので形を変えて何度でも再刊しといてほしいと思うわけなんだ。

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『リテラリーゴシック』読書会第四回目を4月から5月に変更のお知らせ

カフェ百日紅で開催予定の『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』読書会は

2/23(日) 第二回 第四章「幻想文学の領土から」について(←終了)
3/30(日) 第三回 第五章「文学的ゴシックの現在」について
4/20(日) 第四回 全章振り返っての感想・これからの展開ほか
         いずれも18:00から

とお伝えしましたが、4/20(日)に関しては同時期展示中の間宮賢君の意向で、この日を怪談会とすることにし、読書会第四回は5/25(日)に変更します。

3/30(日)は変更ありません。なので今月以後は、

3/30(日) 第三回 第五章「文学的ゴシックの現在」について
4/20(日) 怪談会
5/25(日) 第四回 全章振り返っての感想・これからの展開ほか

の予定となりました。

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いくつか記すべきことはあるのですがそれは後にして

昨日、池袋西口の、駅から西口公園に向かうあたりで見かけたことを伝えたい。

池袋という名からこの近辺にはふくろうの、そんなに大きくない像があちこちにあって、それなりに可愛かったりする。
そこで見たのはやや高い柱の上にくるりと横向きに首をかしげた格好のふくろうの銅像なのだが、誰がやったのか、首から下にタオルが巻きつけてあって、端のほうがこま結びになっていた。
タオルはピンクと白の縞模様だったが、使用感が相当あって、あまり綺麗ではない。
可愛いが貧乏くさかった。
それだけです。
(~街の博物誌2014)

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暗黒のメルヘン(立風書房版)

これ

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箱絵・村上芳正。

後の河出文庫版の表紙(アンリ・ルソーの絵)も悪くないが、そして案外、後期澁澤には合う気もするが、しかし、やはり前期澁澤の「暗黒」なのだから、こういう、ダークで耽美で緻密で退廃とエロティシズムを感じさせる絵が私には一番心にきた。この絵があったから手に取った。
それは『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』の表紙が中川多理さんの人形の写真だから書店で手に取ったという人が多いのと同じです。ありがとう中川さん。

ところで『暗黒のメルヘン』には編者澁澤龍彦の「マドンナの真珠」が収録、筒井康隆選の『異形の白昼』には筒井の「母子像」、半村良選の『幻想小説名作選』にも半村の「ボール箱」が、阿刀田高選の『日本幻想小説傑作集』にも阿刀田の「あやかしの樹」が収録されている。
『暗黒のメルヘン』の時期、澁澤は「小説家」という肩書きではなかったが、既に一冊の小説集を持っていたし、晩年には小説の仕事のほうが主となる。
私が思うに、小説家が編者をすれば自作を入れないわけがなくて、ここで、「いえ、わたしなど」と身を引く人はやはり小説家ではなく、専門解説者なのだ。
その意味では生涯一解説者(でありアンソロジスト)を自認する東雅夫さんは、もとより小説家ではないが、そしてその態度ははっきりしていて立派でもあるが、実質好き嫌いで選んでいたとしても「これがオレの世界」的アンソロジーとなることをできるだけ避けている様子なのはその資質と立場認識によるのだろう。
ここが小説家たちのアンソロジーとは違う。彼らのアンソロジーはどれも自分の世界の延長の意味合いを持つし、その中心には必ず自作があるのだ。

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アンソロジーと言えば

初めてアンソロジーというものの意義を教えられ、かつ一番印象深かったのがご存知、澁澤龍彦編の『暗黒のメルヘン』で、これで知った作家、ここにいた作家たちは以後、一気に「特別」って感じになった(ところで、ここに作品収録の山本修雄って作家が今も不明なのだが、どなたか、この人のその後の活動などご存知でしょうか)。
その次に思い出すのは筒井康隆の『異形の白昼』で(『暗黒のメルヘン』とだいたい同時期に出てたと思う)、今も心躍る作品ばかりだ。
他に半村良の『幻想小説名作選』とこれまた筒井康隆の『実験小説名作選』、どちらも集英社文庫の「名作選」シリーズとして1970代末~80年代初めに連続して出ていたもの。古本があれば買って損はないと思います。
海外の作品なら、もう古典になった創元推理文庫の『怪奇小説傑作集』全5巻が何よりで、その後は東雅夫さんや西崎憲さんの選による現在にくるわけだけれども、途中があまり思い出せない。海外ものなら白水uブックスと河出文庫に国別の貴重なシリーズがあったが、日本作家に関しては、同じuブックスと集英社文庫で阿刀田高選のなかなかいいのがあったのを覚えているくらいで、印象としては1990~2010年間あたりはどうも記憶が薄い。
最近の東雅夫さんの目覚しい仕事はアンソロジーには違いないが、どちらかと言えば、「これが怪奇幻想文学の決定的名作である」と示すテキストの意味合いが強いので、なくてはならない歴史的な業績であるものの、そういうものをそこそこ読んできた私にとっては「こんなのあったのか」的驚きと「あんまり知られていないけど、そうそうこれ、これだよね」的喜びは、やや少ない。
そういう自分としてはどうしても元祖の『暗黒のメルヘン』に心が集中してしまうわけなんだが、いやこれがあるぞ、という方はお会いしたときなどにお教えください。

追記 おっとぉ、1990年代末なら国書刊行会の『書物の王国』シリーズ全20巻があった。この第6巻「鉱物」は私の選でありましたなあ。ということで印象はあんまりあてにならないですね。ただ、こちらははっきりとしたテーマ別アンソロジーだし、その意味では「オレの好きな世界はこれだ」的アンソロジーが『暗黒のメルヘン』に始まる、というのは変わらないけど。

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だがそれだけではなく

昨日の記述は主に『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』第四章「幻想文学の領土から」までの作品について言えることだ。
だがこのアンソロジーには第五章「文学的ゴシックの現在」が最後にあって、一章分のページとしてはこれが一番多い。そしてここには四章までの世界を経てはきたが、もはやそれだけではない今の私たちの意識に直結する表現がある。
単にしばらく無視されていたものの復活だけが当作品集の意義ではない。
実は第四章までだってそうなのだが、特に第五章は是非、序文にも記したように、現代文学の可能性の例示ととらえてもらいたい。

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リテラリーゴシック・フェア続報

少し前に出てました、東京創元社さんのツイートで、ジュンク堂書店福岡店さんでの大規模なリテラリーゴシック・フェアの画像 → ★彡

それと、昨日の、有隣堂町田モディ店さんのツイート → ★ミ

どちらも真ん中に『抒情的恐怖群』を置いていただいているのが心から嬉しい。

有隣堂町田モディ店さんのツイートにある「そんな文学を紹介するこの文庫本が¥1600(税抜き)なのに売れています!!」というところ、注目。特に「なのに」のとこ。
そりゃあベストセラー本とは違うけれども、それでもこういう本としては相当よく動いています、という話は各所でお聞きした。
それはなぜか?

2/28に少しお話したとおり、ここ20年くらい、たとえば「中二病」等の語に代表されるような自意識過剰、嗤われることへの警戒などのために、崇高、極端なもの、異様なもの、臆面もない耽美、陶酔の肯定、などへの志向が、相当抑圧され、マイナー過ぎる形でしか存続していなかったからではないか。
つまり、崇高や非日常、特別を望み憧れる、そんな、確かにいくらか子供っぽい選別への傾向を、ことさら嘲笑し否定する人々からの抑圧が、こういう、本来、人気があってしかるべき方向性を覆い隠してきたとしたら。
その傾向を自覚する人まで無理に目立たないよう「なんちゃって」と「とほほ」と「中二病カコワル」だけで済まそうとし過ぎてきたのではないか。
だが、押し殺されていたものはいずれどこかでその発露を見出す。
このたびたまたま私は、「リテラリーゴシック」の名のもとに開き直って、かつて「異端」と呼ばれたり「耽美」とされたり「美的幻想」とか「暗黒文学」とされたり、等の、たとえば「ポストモダン」の人たちが無視してきた傾向の文学を部分的に復活させたことになる。
それが好評なのだとしたら、このところ皆、渇いていたのだ。こういうものをもっと読みたい人が、本当はたくさんいたのだ。
そこで、長らくの抑圧によってその存在がよく見えなくなっていた読者たちが再び顕在化し、かつ新たな読者が「そうだ、自分はこれが好きだったんだ」と自覚してくださったのだとしたら幸いである。
あるいは、その抑圧のために、本来もっと読まれ喜ばれてしかるべき作品が、あまり書店に出ない状況が続いていたのだとしたら、これを機会にもう一度、「本当に望まれている作品」が多く刊行されるようになったらよいと思う。我田引水はもとよりだ。
これはほんの一例だが、赤江瀑の短編がすべて絶版とはどういうことであるか。
思い込まされによる無意味な抑圧を解除せよ。

もっと、もっと、リテラリーゴシックを。

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昨日はパラボリカ・ビスに

おいでいただきました皆様、中川多理さん、今野裕一さん、ありがとうございました。
中二病を忌避してはいけない問題、それと次の展開など、また後半での批評の問題など、この先も考えたいところですね。また何かあればそのおりに続けます。

今野さんから、次は? と問われたので、特定の作家に依頼して書下ろしができたらいいかなあ、などと答えてはみましたが、どの程度実現するかはわかりません。
アンソロジーに入りきらなかった作品の再編などは需要の余地があるならします。
ただ、漫画・映像・アートに関しては自信がないので依然として文学限定で。
それと、私としては、
この先は、プロデューサーとか紹介者の役割じゃなくて、自分のリテラリーゴシックの発表の場こそが一番欲しい、ということもおわかりくださいまし。
そういうメディアの創設にどなたかご賛同いただけたら幸いです。ないんだなあ、今、それ。

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