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丸善書店・ジュンク堂書店ネットストアで「別腹」販売中

販売中 → 別腹7号・特集「食」

こんな形でも流通。表紙いいでしょ。
ジュンク堂池袋本店店頭にもあって、「手紙魔まみ、わたしたちの引っ越し」誌と並んでいるとの由。

巻頭の「林檎料理」を寄稿。少し前に予告した、足穂方面進出の試みの一つとして。
なので実際には「別腹」ではなく「本腹」。
というのは今回「別腹」ご寄稿の俳人石原ユキオさんによる小句集「小料理いしはら」も同じでないか(足穂風「は」抜き)。

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中二病をめぐって

5/24 幻想文學セラピスト、千野帽子・米光一成、於・パラボリカ・ビス

5/25 『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』読書会final、於・カフェ百日紅とで

上、いずれも大変よろしうござあり候によって、関係のみなさまに御礼申しあげ候。
またいずれにも一部話題に出たる「中二病」とう珍奇の様相につき以後も考えたく候。

てことで、いつか、「中二病」対談(鼎談でもいいけど。でも四人以上だと話が不完全燃焼になりやすいので不可)やりませんか、どなたか。

なお、中二病の原義は伊集院光が語った言葉からだそうで、しかもそれは、自分の中に今もあるちょっと恥ずかしい部分、についての命名であって、他者に向けて罵倒したり嘲笑したりするものではない語として始まったとのことです。今はかなり違う用いられ方をしていますが。マンガ・アニメの題名にもなってますなあ。

とそれはともかく、24日の、読書とその周辺の関係から
たまたま千野帽子氏の件で見つけてしまったご本人の記事 → 千野帽子氏記す

これだよこれ。依頼者は誰か知らないけど、こういうことがやっぱり仕事の質を落とすね。がっかりですよ。
が、今はその方も、こういう経験の結果、有能になっておられることを祈る。

先日、有能でない人の件で、名前間違ったり、 という例を出しましたが、それは依頼連絡のさいなどの話でした。
記事内の誤記や誤植の見落としなんかは私にも常にありますので、人のこと言えないや、ごめん、ということでそこは誤解のないよう、削除しました。
改めて言えば、間違いは誰にでもある、しかし、問題はそれが発覚した後の対応と処理、その方法と速さではないかと思います。なかなか自分も自信持てない。

でも本気出せばできるはずなんだ! それが本当のオレなんだ!(←中二病)

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今月来月の行ったり来たり

これ→千野帽子&米光一成スペシャルトークショウ「幻想文學セラピスト」

行こうと思ってます。5/24(土)18:00~

それと再再度ですが5/25(日)18:00~カフェ百日紅で『リテラリーゴシック』最後の読書会。予約不要・入場無料・要ワンドリンクオーダー

あと、少し先ですが、
これ→『真夜中の博物館』刊行記念トークショー『呪術的美術と 文学的ゴシック』
6/21(土)19:30~池袋ジュンク堂4階喫茶 入場料:1,000円(ドリンクつき)
みなさん来てね。

ほかに来週、某文芸誌の企画で某二氏と鼎談しますが、公開ではないので記事になったらここでもお知らせします。

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対人的有能さ

だいたい事務能力と比例しているのだが、中には対人的能力が有意に劣る人もいる。
対人的能力の有無は最末端のメンバーに対する応答を見ているとすぐわかる。
あるプロジェクトにおいて、いかに末端とはいえ、必要だから依頼するメンバーなのだが、そこのところをいい加減に考えていると、つい、世上の立場地位の文脈を持ち込んでしまう。実は各プロジェクト内のメンバーにおける重要度は世上の意味とは関係なく、その関係する誰もが重要度の点では同位であったりする。
有能な人はそうした対象に対して決して手を抜かない。大物・最重要人物・人気者・権威者への対応と全く同じ対応ができる。仮に間違いが出てきても、対処が小手先でなく根本的で迅速だ。
それができるというのは、自分の引き受けた仕事に関してどこにも気を緩めずにいられるということで、だから有能なのだ。
(今回は有能な人の対応の仕方というものがどんなか知ったので書いてみました)

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腐女子の立派

川口晴美さんのツイッターで
「川口センセは立派な腐女子だって彼女言ってましたw」とあって私もw
 → 川口晴美さんツイート

自分の周囲にも立派な腐女子は数多いが、ご存じのとおり私自身は腐女子ではありえない。
ただ腐のかたには、BLの遥か祖先のその前にある少年愛に関する学位論文をもとにした私の唯一の本格的(他はエッセイだから)評論『無垢の力』をお勧めします。

よく言われることとは思うのだが、腐女子とされる女子たちは常に関係性に熱い眼を向けますね。
たとえば「SHERLOCK」なんて「TIGER & BUNNY」に並んで現在、腐の聖典だと思うけれども、そこで単にベネディクト・カンバーバッチ(シャーロック)萌えであっては腐女子たりえないわけであって(評論ジャーゴン「たりうる」使ってみました)、飽くまでもカンバーバッチとマーティン・フリーマン(ワトソン)の関係を妄想しながら萌えあがるわけだ。
とはいえ、「SHERLOCK」はそういった視線を既に組み込んで作られていて、ねっからの腐視線からすると、そこはむしろやや興ざめとなるか。
よりおいしいのは本人たちが絶対それじゃない的に描かれているシチュエーションをこじ開けるようにして腐展開を二次創作することなのかもしれないが。
そこのところはいつかほんまもんの人に尋ねてみたい。

なお、腐「女子」とはいえ、腐的な思考は男子にもありうる。
ただし、腐的二次創作は飽くまでも腐的欲望が先にあってのものだから、その本質的欲望を感じさせない書き手がたまたまBLを「用いた」作品を発表して見せた場合、そこでの自己表現志向が腐的欲望を上回っていることが感じられると、腐の人は自分たちの聖域を犯されたように感じて怒るのではないか。
と、以前、ある有名歌人(隠すつもりはない。枡野浩一さんです)が、BL短歌やってみました、と言って公開したら、腐の人たちからよく言われなかった、という件を思い出した。
自己表現のために何を使うのも自由だし、その作品のよしあしには関係ない。それでよい短歌ができれば何の問題もないし、恥じる必要もない。
が、ただ、その行為は腐の人から見ると「立派」ではなかったのだろう。

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心に丸い雀を

たいそう丸い雀が道端で飛び跳ねているのを見た。

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(ちょと間が空いたけど)これは記しておかねばな

(5/8の記事に続けて)

いや、文芸評論の衰退という問題は、新人賞のあるなしでは実はない。
明らかな文芸誌的出発点を経なくても、その志のある人は立派な批評家として出てくる。
最近なら栗原裕一郎がそういう志の人だろう。
問題があるとしたら、文芸誌自体が、既に功成り名遂げた評論家にしか書かせない・あるいは編集側として語ってほしい作家作品についてしか若手には書かせたくない、という姿勢を(明言するのではなくうっすらした空気としてでも)示していることではないのか。
受賞歴にかかわらず、キャリアの薄い新人批評家を次々と起用し、彼ら自身が今最も問題とするテーマについて書く自由を与えられることが続けば、評論の新人賞の有無にかかわらず、批評の衰退などと言われるようなことはなくなる。
すべては文芸誌の編集者が現在の新人・中堅文芸評論家を重要視しているか否かだけである。

そして(ここでは、小説と評論、という二項だけに絞るとして)、

「小説は評論のためにあるのではない」

のと同様、

「(文芸)評論は小説のためにあるのではない」

という評論の自由を認めることによって、(小説サイドから見るなら)ようやく

「小説家は他者の言葉を聞く権利を手にする」のだ。

「文芸評論の衰退はいずれ小説も衰退させる」
という、こういう問題になると多くの人が言いそうな言葉は、
「よい小説を作家に書かせるため、評論家は協力せよ、そういう協力者がいないとよい小説も生まれない」
という文脈で読まれそうだが、違う。
そうではなく、
小説家なら小説家が、まるで自分の思いもよらなかった、自分が中心にない場所に引っ張り込まれ、時にひどい目に遭う、という自由が、文芸誌にあればあるほど(小説家サイドから見るなら)、評論が衰退せず、それによって小説も衰退しない、
と言えるのである。

ここまでを私は、評論家ではなく、小説家として書いている。
その場合、自作が時にひどい言われ方をする場合をもどれだけ自由と認めうるかが文学全体への貢献にかかわる、ということになるだろうが、それだけであればなんだか小説家特有の自己中心主義を克服した理想的なことだけを告げて恰好をつけているみたいで、だから以下を付け足さねば本当ではない。

ただし、何よりも、何よりも、どんな形であれ、自作が言及されること、それだけを私は批評家に望んで止まない。

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あ、そっかー

昨日の件。
群像新人評論賞を新人文学賞と分けて独立させる、そして評論のジャンルは問いません、とあるところから、「文芸評論が衰退した」と見る人が複数いることを発見した。
言われてみればそうかもしれない。
といって、ジャンル自由なので「文芸評論は受け付けない」ではないから、そのまま衰退というのとも違うように思う。
やってもいいし、質が高ければいいよ、でもこれからは哲学批評とか社会学批評とかとタイ張って競ってね、ということだ。それに耐える文芸評論なら歓迎ということでしょう。
いつも言っているように、批評行為はわれわれが意識を持つ限り、常に行われているものであって、私としても特に文芸に向けてだけを優先する必要は感じない。批評というジャンルの本来の広がりにもどったというだけのことではないか。
むしろ、これから「生きることと同義である批評行為」としての評論に志す人は、文学限定のことは専門のレビュアーに任せて、真に必要な意見を書けばよい。
かつて柄谷行人が考えた、批評は文学に奉仕するためにあるものではない、という様相がよりはっきりしたのだとしたら、やはりよいことである。

と今日は思った。

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評論一喜一憂

昨日、来年から群像新人賞の評論部門がなくなる、と聞いて、大講談社も結局、他と同じく、小説最優先主義に流れてゆくのかと思い、自分はもはや評論家ではないが、実に実に情けなく、無念であった。
ところが今日、評論部門をなくすのではなく、新たに評論新人賞というのを創設して、小説部門と分け、募集するのだと知った。 → 群像新人文学賞・群像新人評論賞

見くびってすんませんでした。 「群像」誌偉い! 講談社偉い! 見直した! さすが大出版社、太っ腹。

上にも記したように今の私はもはや評論家ではなくただの小説家にすぎないが、大いに祝福します。おめでとう!

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『リテラリーゴシック』談義

今月から来月にかけて、複数の場で話すことになりそうですが、何によらず、ものを始めるときは同じ物言いの繰り返しになるだろうし、それに耐えられなければ創生というものは不可能なのではとも思う。
なので同じようなことを何度も言うかもしれませんが、それはまだその言葉を聞いたことのない人に向けてなのでどうかご勘弁ください。

またそこで、たとえば「ヘイ、『リテラリーゴシック』的な作家は他にこれとこれで、今はこの作家が買いだぜ」とかそういうディーラーみたいな役割は決してやらないことを誓います。

それと、好きで語る作品・連想で言及する作家作品以外の話はあんまり保証できません。
問われれば精一杯答えようとはしますが、「あれとあれについてはどうですか」といった問いに速やかに応対する、なんでも解説者みたいなのはどうか期待しないでくださいね。
なお今、一番語りたいのは解説ではなく、明日の新作。

内、読書会という形では下に記した5/25の百日紅での回だけの予定です。

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食は個人的/秘教的

味覚に客観はない。味覚には具体的な個々の体験しかない。
味そのものは実際に味わうことによってしか得られないし、料理等の映像があっても、それと似たものを食べた経験のある人が想像できるにすぎない。言語的に伝えうるのは味覚の周辺だけだ。
とはいえある程度の体験の共有を当然のものとしてわたしたちは食について語る。
そこにはなんとなく秘密結社的な感じが……あるのか? そんな感じを伝えてみました。のか?
明日、出品されるとのことで、もう一度 → 西荻パラソル日和

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『リテラリーゴシック』読書会最終回

5月25日(日曜日)18:00~

カフェ百日紅で。

『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』読書会第四回目・最終回。全作品について。

来月にはふたつほどこれに関連する催しが予定されているのでその予行演習的に。

これまでご参加いただけなかった方、最後の機会です。

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樋口ヒロユキ『真夜中の博物館~美と幻想のヴンダーカンマー』

これ

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出版社: 書苑新社 ISBN-10: 4883751708 ISBN-13: 978-4883751709

発売日: 2014/4/28  2700円    詳細 → アトリエサード

わっくわくですね。

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これきた

樋口ヒロユキ新著 『真夜中の博物館』 刊行記念トークショー

『呪術的美術と 文学的ゴシック』

ジュンク堂書店 池袋本店  開催日時:2014年06月21日(土)19:30 ~

著者:樋口 ヒロユキ(美術評論家)×ゲスト:高原 英理(作家)

詳しくは → ジュンク堂池袋本店  よろ!!

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