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「ユリイカ」2015年8月号「特集=江戸川乱歩」発売中

2015年7月27日12:07現在、アマゾンでの雑誌・逐次刊行物の売上第1位。
    これ → ユリイカ2015年8月号

ところで昨日の続きなのだが、『孤島の鬼』の諸戸はあまりに可哀想なので、
蓑浦と諸戸が仲良く愛し合いながら探偵をする話があったら、と考えて書いたのが、

『人外領域』(第59回江戸川乱歩賞最終候補作品)

ここに登場する紫宮透と友枝史郎は蓑浦と諸戸のうまくいった関係です。
受賞は逃したが、きっと乱歩はわかってくれる。
実はさらにこれに続く部分も予定あり、できれば『虚無への供物』のように500枚くらい書き足していつか刊行できたらよいと思う。

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『孤島の鬼』をめぐるいくつか

リブレ出版という主にBL小説の刊行で知られる出版社から、遂に「BL小説」として『孤島の鬼』が刊行された。
咎井惇によるその表紙画に描かれた二人は私が想像する諸戸と蓑浦に最も近い。特に諸戸。リブレ出版のサイトで見ていただきたい。
    → リブレ出版

二人を大きな蛇がつないでいるのも本文を知っている人には「これだ!」

しかもこれはシリーズで、『孤島の鬼』は第一巻として「BL乱歩」と銘打たれている。
(第二巻『人間椅子 屋根裏の散歩者』が「変態乱歩」、第三巻『芋虫』が「血塗れ乱歩」とのこと)
とはいえ、『孤島の鬼』を現在言うところのボーイズラブと呼んでしまうのは全体のバランスからするなら半分以上違っていて、やはりこの小説は怪奇冒険猟奇小説に同性愛の要素が加わったもの、と考えるのが順当だろう。乱歩自身、ここに加えた同性愛の件はむしろストーリーを邪魔するようなところもあった、といったような回想もしている。もともと同性愛を第一のテーマにしたストーリーなのではない。どちらかといえば、主人公が不思議な運命からある女性を探し求める物語が主なのはご存じのとおり、同性愛を描いていても二人が結ばれるわけではない。
とはいえ、物語の末尾まで読み終えると、女性とのことはそれとして、やはり諸戸道夫と蓑浦金之助の関係の悲劇性(特に諸戸にとっての)が心に痛々しく残るであろうし、その意味で、ある種のBL読者が強く反応するであろう、「BLの古典」とされるのも否定しない。
ところで、このリブレ版は桃源社版『江戸川乱歩全集』を底本としているそうだが、諸戸と父の対面の場面では光文社版全集にあったのと同じ一部削除(BL小説的には問題ない)が見られる。比較していないが桃源社版にはなかった削除ではないだろうか。ただしおそらく他は光文社版同様、削除なしと思われる。
一方、クライマックスで語られる二人のある衝撃的なシーンが、現在の春陽堂文庫版では(意図的にではなく、どうも事故で、とされているけれども)すっかり欠落しているのだが、ここはそのまま生かされている。
これがなければ「乱歩のBL小説」という触れ込みも嘘になる。リブレ版としては何より落としてはならない部分である。

私が群像新人賞評論部門で優秀作を認められたさいの作品が『語りの事故現場』というもので、主に江戸川乱歩と三島由紀夫双方の『黒蜥蜴』の比較から始めている。
その後、乱歩の『孤島の鬼』の語りの矛盾とそれにともなう裏面的意識性を追求することとなるのだが、そういった歪な語りであるからこそ成立した奇跡的作品とも思う。そこからは、身体変形のグロテスクという方向の猟奇怪奇とは別に、ある強烈な怯えと自己愛の悦楽がほの見え、そこがとりわけ恐ろしく素晴らしい。
    ここで『語りの事故現場』全文が読める → 名張人外境・乱歩百物語第二十話
    (目次中の「第二十話 語りの事故現場」のところを開いてごらんください)

ところが、とあるレビューで、「『孤島の鬼』は本格推理ではないから価値がない」と書いている人がいて、これってもう「この小説にはマルクス主義が反映していないから駄作である」と言うのと同じ心ない罵倒である。先に、本格を主流と考えるのは自由であるが、それを重んじすぎるとミステリへの抑圧として働くこともある、と記したが、そのわかりやすい例だ。
(本格好きの方が皆こういう駄目な読み手だというつもりは全くない。ミステリは本格推理であれ、という意見を単純にドグマとしてしまう読み方がよくないのである)
文芸作品はその作品としてのよしあしを読みたい。ドグマティックであることが文学の未来を開いたことはおそらくこれまで一度もないだろう。

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『江戸川乱歩妖美劇画館』

『江戸川乱歩妖美劇画館』1・2巻が本日来た。
先に一度紹介したもので、
第1巻が上村一夫による「パノラマ島奇談」と桑田次郎による「地獄風景」。
第2巻が石川球太による「白昼夢」「人間椅子」「芋虫」「お勢地獄」(「お勢登場」)「押絵と旅する男」、真崎・守による「巡礼万華鏡」(「鏡地獄」による)、池上遼一による「お勢登場」。
来月には第3巻、横山光輝による「白髪鬼」とそれによるオリジナル「闇の顔」を収録とのこと。

石川球太による四作品(「押絵と旅する男」は別の掲載誌)連続掲載は確か1970年、「週刊少年キング」で、私はこの第一回「白昼夢」から続けて読んでいたが、たまたま「芋虫」掲載号だけ買えないまま次の週になり、中でも最もショッキングであろうこの一作だけを読み逃してしまった。
その後、今に至るまで、(私家版は知らないが)公の単行本としてこれらの四作品は一度も刊行されず、それで古本屋で1970年の「少年キング」を見つけるとは掲載作品を確認の後、「白昼夢」「人間椅子」「お勢地獄」掲載号までは買いそろえたものの、ここでも「芋虫」掲載号だけ入手できないままであった。
というわけで、長年の望みをはたすことができて本当にうれしい。
なお、今回、若干、石川氏が手を入れているとのことで、初出とそれほど違わないとは思うが、この先も、もし掲載号がみつかることがあれば比較のために買い求めようと思う。ただ数千円とかになると考えるが、これまでのところ、500~1500円程度だったのでまずはこのまま推移してほしいところである。
今回ようやく読んでみて、思いのほか原作に忠実だったことを知った。他の三作品もそういえばかなり原作を活かしていたと思う。ただし、「人間椅子」だけは結末が違う。それと「お勢地獄」も末尾の一ページ分だけだが違う。
すると、「芋虫」では、少年雑誌に夫婦の性生活にかかわる描写がなされることになるが、これもぎりぎりながら描かれていて驚いた。当時は今と異なり規制も緩かったのだろう。現在では、むしろ性問題以外の身体描写に何か言う人もあるかも知れず、いや、それよりも、今こそ再び、金鵄勲章を軽んじるとは何事だ、とわざわざ言い出す人がいたらすごく厭だが、そこまではまあないと思いたい。
それともうひとつ知ったのは、この「芋虫」タイトル表紙の絵柄が、あきらかに、講談社版の『江戸川乱歩全集』第一回目の版(およびそれを踏襲した第二回目の版)に入っていた、永田力による「芋虫」の挿絵をモデルにしていて、なるほど、このころ、特に「少年キング」で石川球太以外にも横山光輝や古賀新一を起用してさかんに江戸川乱歩作品を漫画化していたのは、この、乱歩没後最初の全集が大いに人気であったからなのだと感じたことである。

今また、江戸川乱歩没後50年をむかえ、いよいよ多メディアに乱歩的なものが増殖してゆくのだなと思うととても楽しみだ。

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「ユリイカ」2015年8月号「江戸川乱歩 没後五〇年」全貌、そして

青土社のサイトで、「ユリイカ」8月号「江戸川乱歩 没後五〇年」の執筆者と記事の題名の全体が公表された。
     → 「ユリイカ」2015年8月号

ここで小説の創作だけ、作者と題名を記載順に転記してみる。

  高原英理 「出勤」

  樺山三英 「D坂再訪」

  倉数 茂  「実録・平成サーカス奇譚」

  酉島伝法 「摩天の軽業師」

樺山・倉数・酉島各氏、どれも面白そうで期待がわくが、私の作品の題名だけ、まるで乱歩らしくない。なんだこれは。あんまり地味過ぎではないか。
しかしそれはここで先に記したように、意図してそうしたもので、ではさて、いったいどんな小説なのか、お読みいただければ幸いです。

ところで、おや、次の「ミステリマガジン」も乱歩特集だそうです。乱歩の夏、いいですね。
    →「ミステリマガジン」2015年9月号

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浅草趣味、と彼は言う

江戸川乱歩は若いころ、僅かな金で安い宿をとっては浅草界隈で一日過ごすという暮らしをしていたことがあると書いている。
このとき高等遊民的猟奇心がはぐくまれたのだろう。
労働はせず、毎日、見世物や映画を見て回り、今とは違ってひどく猥雑な路地をのぞき歩く、という日々を金が続く限り送ったということだ。
現在の浅草はもうそういった場所ではないし、見世物は特別な場所と期間でしか見られないが、その興味本位、面白いものないかな、あ、これは何だ、的ぶらぶら歩き感は、たとえば中野ブロードウェイを徘徊していると少しだけ感じるものである。猟奇とは言えないが変なもの探し、くらいなら中央線沿線の各駅にいくらかずつ感じはする。
江戸川乱歩は、その創作の契機として、海外の多くのミステリを読んだ上でそれらを比較分析し、そしてこれなら自分でも書ける、として「二銭銅貨」を書き、その後も創作のかたわら探偵小説のエンサイクロペディアのような著作を著わしてゆくというところからも知れるように、まず最初に批評家としての眼があった。その方面の能力は特に戦後、最大の規模で発揮される。
たとえば三島由紀夫が実は小説家であるよりはまず先に批評家的な資質を持っていた、と言われるように、乱歩もまた批評家の資質を持った小説家だったのだ。
だが、その一方で、後のイメージでは徹底的に空想的幻想的な作風に見られているけれども、実のところ、小説書きとしての彼の小説の最も直接の、手触りのようなところは、大正時代の私小説のような、小さく狭く、卑近な体験を語る口調と姿勢が作り出している。
乱歩には抽象的な批評の眼と、具体的で手堅い経験報告の手法とがともにあって、この両方があるきっかけでうまく発揮されると、驚くべき空想を大変読み手に迫るリアリティをともなって語りうる結果になるのだ。
その彼の私小説的リアリティの源泉のひとつが浅草というわけである。乱歩は随筆の名手でもあるが(それはやはり私小説作家との類縁性にもよるだろう)、よく知られた随筆のひとつに「浅草趣味」というものがある。これを読んだときは大変悦楽的な印象を持った。
かつて春陽堂版と講談社版の『江戸川乱歩全集』を探しては読んでいたときの私にとって、この大正から昭和初年の頃の浅草がどこよりも眷恋の地であった。

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乱歩の作品から始まるフィクション、自分の場合

今回、「ユリイカ」誌編集部から依頼をいただいて、江戸川乱歩の作品のいくつかを読み返しながら、考えたのは次のようなことだ。

もともと批評家的なところと私小説作家的なところを多く持つ江戸川乱歩にとって、ひとつの空想的物語を作るには何らかの支柱、あるいは組み立てのための骨組みとなるものが必要だったに違いない。それが彼にとっては本格探偵小説的「謎」で、これを可能にするためさまざまな意匠を凝らした。
だから乱歩にとって、ミステリ的謎解きは自作を成立させる要と思われていたのだろうが、それは必ずしも画期的なトリックの創設や「本格物」としての型式の整備である必要はなく、「探偵趣味」と彼が呼ぶ、ある、謎への欲望のようなものさえ一度掴み取れば、あとは幻想と怪奇へのもともとの志向がドライブし始め、そのまま突っ走ることで、おそらく本人にも思いもよらない幻想的で怪奇な物語ができあがっていった。
ならば、後からそれを読む者としては、そして、必ずしもフェアなトリックと推理への忠誠を誓っていない、ミステリは好きだが何も本格物であることばかりを尊ばない自分としては、その、一度浮遊疾走し始めた後の、得も言われぬ幻想怪奇の探偵趣味とそのもたらす「奇妙な味」だけを求めて書いてみたらどうだろうか。
私が好きな乱歩の作品の要素とは、優れた謎解きでも意外なトリックでもなく、この幻惑されるようなグロテスクとアラベスクの部分なのだ。
それを、乱歩のように「本格」を気にながらではなく、理知への気配りは予め放棄した上で、私が乱歩から受け取った幻惑から開けてくる物語だけを語りたい。
これが今回の短編を書くときに考えたことである。

「ユリイカ」2015年8月号「特集=江戸川乱歩」、アマゾンでは既に書影が出ていて、これを拡大して見ると今回の執筆者とその内容がほぼわかりますね。
小説とマンガについては、おお、と思うほどの曲者ぞろいでいよいよ楽しみだ。
    → 「ユリイカ」特集=江戸川乱歩

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乱歩的動機

本格推理(と後に呼ばれるような基準)を正統な目標として「探偵小説」を書き始めた江戸川乱歩であれば、未曾有のトリックとフェアな謎解きとを目指し続けたのは当然だが、書き続けてゆくうちにしばらくすると、「推理」よりも「猟奇」、「トリック」よりも「怪奇と冒険」が主となっていったのは私から言えば、作家としての作業継続が乱歩の本質をよりあらわにしたからだ。
しかも真に乱歩が探偵小説に魅せられたきっかけは菊池幽芳の『秘中の秘』や黒岩涙香の『幽霊塔』『怪しの物』等の怪奇冒険小説なのだから、その後に多くの海外のミステリを読んで「理知的文芸」としての探偵小説をこそ理想と考えたのだとしたら、そのとき、彼はモダニズム期特有の「クリアな近代」への憧れのあまり、もともとの自己の探偵小説愛の動機が怪奇と冒険であったことを一時忘れていた、とも見える(乱歩はよく、謙遜の意味で、自作のいくつかを「古い怪奇」の世界と呼んでいる。彼にとって、当時の見栄えのよい「モダン」と比べ、「怪奇」は「前近代的」で「古い」のである。一時モダン雑誌風となった横溝正史編集の「新青年」を見て「自分の居場所はなくなった」と拗ねていたという話もそれらの憧れをよく伝えている)。
さらに言うなら、ミステリの祖とされるエドガー・アラン・ポー、乱歩がその筆名のもととした作家の資質もまた、怪奇と幻想、冒険とスペクタクルなので、一般に考えられるようにミステリの核は「本格推理」、なのではなく、もともとミステリは多くの「変格」あってこそ、ときおり推理に特化した作品が生まれる、というのが常態と考えるべきではないか。
というより、怪奇と幻想、冒険、猟奇こそがミステリの母体であり、稀に理知のみによって成る「本格」が生じるにすぎず、しかもその「本格」は全ミステリの一時的形態でしかない、それを中心に考えるのは作家個人の心情的自由だが、あまりにそれにとらわれるとむしろ全ミステリの自由への抑圧として働くこともある、というのが実情ではないか。
戦前の数少ない「本格物」の作家として知られる大阪圭吉の代表的短篇のひとつ「三狂人」は本格的な推理小説であるとともに今読むと大変に猟奇的・怪奇残酷な面もある。
乱歩が怪奇・幻想・冒険・猟奇へ向かっていったのはその意味では、広義のミステリとして当然と私は考える。
「闇に蠢く」や「盲獣」を書いている乱歩にはもはや「本格」への未練はないかのように思えるが、後になってこれらの作品を他よりは低く評価するような言い方を残しているのは、犯罪を語るという点によって差別されないような「健康な推理小説」を新文芸ジャンルとして広くアピールする緊急の必要を感じていたジャンル生成期の評論家としての表向きの言葉ではなかったか。
あとは明日。

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乱歩のことならいくらでも書けてしまうね

同時代作家に優れた人がたくさんいるのはわかっているが、それだけにあまりいい加減なことは言えないし、しかもその作品状況は常に変わり続けている。
だが一度は自分なりに、全望俯瞰とまではいかなくとも、ある程度、地図のようなものができている作家の作品については不正確ながらもすぐ答えられる部分があって、自分の場合、江戸川乱歩がそうした作家だ。

日本探偵小説の父と言われているけれども、本格トリックの独創は少ないし、クイーンやクリスティのように画期的な推理小説をいくつも発表したわけでもない。
戦後の文学界に「推理小説」という一大ジャンルを打ち立て、現在の隆盛をもたらしたのは乱歩の仕事と言ってよいが、それは乱歩に、自らにはなかなか実現できない、クリアな推理によって思いもよらない驚くべきトリックを解き明かすという「本格推理」への強烈な憧れがあったからで、そうしたミステリに関しては常に優れた批評家でありジャンルの番人・トレーナーであろうとしたからだ。
だが当人の本質的な資質は、怪奇と幻想、探偵趣味による奥暗い謎と夢の非現実性ゆえの魅力を描くところにあった。
その資質からは彼の望む本格推理はできてこない。だから一層憧れ続ける。
しかしその憧れが「推理」の基準枠を強め、それが極まると逆にその間から「そうでない怪奇」が漏れ出す、そういう作家だったと私は思う。
今日はここまで。

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7/27「ユリイカ」刊行までは再開してみるか

「ユリイカ」8月号 江戸川乱歩特集 は7/27刊の予定。

昨年から諸般の事情でというか他の件が多すぎてもうどうでもよくて更新をあまりしてこなかったが、以前に比べると若干時間ができたこともあり、しばらく乱歩の話でも。

光文社文庫版『江戸川乱歩全集』を読んで初めて、「猟奇の果」に別の結末があることを知った。そしてそれはこれまで読まれてきた「白蝙蝠」の第二部よりずっと初期乱歩らしくて面白いということを知った。
これを収録しただけでも光文社版は価値が高い。
あの形の「猟奇の果」なら、以後、「人間椅子」や「屋根裏の散歩者」なみの扱いでもよかったのではないかと思うほどだ(というのはややほめ過ぎか。しかしその「奇妙な味」がよいと思う)。謎解きはいい加減でも題名通りとにかく猟奇の趣が前面に出ていてよい。
執筆当時の乱歩としては「こんなのは時代遅れ」という意識で、もうだめだと思い、横溝正史の意見を容れて冒険活劇に仕立て直したのだろうが、今見ると、むしろ大正から昭和初年ゆえの高等遊民的探偵趣味のわくわく感が描かれていてその懐かしさといかがわしさが得難い。
と本日はここまで。

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「ユリイカ」8月号・特集=江戸川乱歩(仮)

「ユリイカ」2015年8月号「特集=江戸川乱歩(仮)」に「江戸川乱歩から書き始めるフイクション」として自作が掲載される予定なのでお知らせします。

既にウェブ上には予告が出ているので → Amazon , 近刊検索β
ここでも少し。

江戸川乱歩は今年、没後50年をむかえ、各方面で新たな企画が始まっていますね。
TVアニメとして「ノイタミナ」で「乱歩奇譚 Game of Laplace」放映中、とか。
古賀新一による『江戸川乱歩怪奇漫画館』(実業之日本社)の刊行、
上村一夫・桑田次郎・石川球太・真崎守・横山光輝による『江戸川乱歩妖美劇画館』全3巻(少年画報社)近刊、など。
特にこの『江戸川乱歩妖美劇画館』第2巻に収録の石川球太による「白昼夢」「人間椅子」「芋虫」「お勢地獄」(お勢登場)は、これまで一度も単行本化されたことのない、幻のかつインパクト極大の(「芋虫」以外はリアルタイムで読んだので知っている・それだけにおそらく最恐の「芋虫」だけ読めずにいたのがこれまで大変残念だった)短篇で、第1巻の上村一夫による「パノラマ島奇談」とならんで特に貴重と思う。
まだまだこれからも多くの「乱歩にちなむ催し・刊行」が続くことでしょう。

今回「ユリイカ」に掲載予定の作品の内容はまだ秘密ですが、「乱歩から書き始める」、なので、乱歩の小説を読んだ後、ふと書いてみた小説、ということで。

最初、題名を乱歩の作品らしくしてみようかと思ったが、それではパロディであって、今回は二次創作ではないのだから、すべてやめた。
で、どういう題名になったかは、これも刊行後、ごらんください。

ほかに丸尾末広、樺山三英、倉数茂、の各氏の作品が掲載される予定だそうです。
丸尾氏は既に「乱歩もの」では大御所だが、この人選は期待できますね。
加われて嬉しい。

ではおたのしみに。

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明日、大阪へ参ります

7/11(土)19:30~ SUNABAギャラリーで「幻想文学と幻想美術」という題で話します。   → SUNABA GALLERY

7/13(月)まで東京におりません。ゲラ等に関しては7/14以後返送させていただきます。

「幻想文学」は現在、事後的に発見されてゆくことの多い分野と言えますが、「幻想美術」の方はどうでしょうか。
シュルレアリスム絵画を安易に幻想絵画と呼ぶことは錯誤のもとですが、しかし、これもまた事後的に「幻想的である」ということは禁じられていない。
幻想と呼ぶとき、ジャンル的判断はあまり有効でなく、個別の鑑賞者の視線が主にそれを決めている。
といったことから話そうかと思います。

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