文芸評論ではなく
が、しかし、今回のエッセイ集は文芸評論的なことより、文学なら文学にかかわることからの記憶、が主になっているので、だからエッセイ集なのだ。
手にした本、中でもよく憶えてはいないが印象深かった貸本の記憶とか、あるいは妖怪、玩具、かわいいもの等々、また主に1970年代の文化状況的な記憶など。
すると、澁澤龍彦・中井英夫に関する記憶の記述が欠かせないことになり、それらは「失われた先達をもとめて」という章として真ん中より少し後あたりに置いた。内容は「中井家の方へ」「澁澤家の方へ」という二節でできている。
おわかりのとおり、「失われた時をもとめて」の最初のあたりを模しているわけである。
が、それはよいとして、このお二人についての記憶というのは私には宝のようなものだが、しかし、既にデビュー(というのが幻想文学新人賞受賞以後とするなら)して30年近く経った自分が、未だに先達の名のもとに「……の後継」というような(ただし、これは私が言いだしたのではない)言葉によってしか認知されないとしたらまことに情けないことでもあり、実際のところ確かに情けないのではあるが、とはいえ、ともかくも(私の文業をいくらか知る人から見れば)私にもいくつかはある見どころの中の、それはひとつであるとして、ただそこだけを強調しないよう、編集の方と相談はした。
最初、「澁澤家の方へ」を全体の末尾に持ってくるようにしては、という意見もあったが、そうすると上記のように、ただ澁澤・中井のネームバリューにすがって仕事をしているようなニュアンスばかりが強調されるので、それはやめ、中ほどに置くことで、「大切だが、それも記憶の中のひとつ」の意味をそれとなく示すことにした。
あと、これもいろいろ肯定も批判もあるだろうけれども、「文学的ゴシックの旗手」という語が編集側から提案されたので、帯文に使わせてもらうことにした。そうだな、これなら先駆者にぶら下がってばかり、という意味にはならない。
と、以上のように受け取ってもらえるかどうかはわからないが、私に対して、ありがたくも「澁澤・中井の後継としても可」と見てくださるみなさま、そして、「こやつごときが澁澤・中井に続くなどとは許せない。ききー」とお怒りのみなさま、まま、ここはそういうわけで、ただ淡々と記憶を語りたかっただけなのだ、ということをおわかりいただければ幸いです。(つづく)
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