小説を書く
エッセイとか随筆だと体験と思いつきで一篇書き終えられるところ、小説、ということになると、随筆まがいでもかまわない、限りなく自由でよい、と言われるにしても、やっぱりフイクションなら「現実」(と自分が認知しているもの)に負けないフイクションでなければ書かれる意味がない、と考えてしまうためか、一回一回が勝負という気になる。
たとえ過去にいくらかよいと思える小説を書いたと自負していても、それと同じかそれ以上の作をなせるという保証がないので、書き続ける間もずっと崖っぷちにいる気分である。
こうして書かれる小説がうまくいっている場合、随筆より評価が高いのも当然のような気もするが、しかし、それでも、手間をかけた割には大しておもしろくない小説よりは、気楽に書かれてしかもおもしろい随筆の方がいいに決まっている。
苦労の量は問題でなく、要は成果である、というのはどこでも同じだ。
それでも自分は最終的に小説だな、とどこかで感じいて、それはフィクションを何かに導かれるように書き続けたときのある至福の記憶によるのだろうか、今ではそのモティベーションの意味もよくわからないが、随筆がそれでも自分の体験という「現実」の後にあるものという建前にあるのに対し、小説は、理想的には、現実の前にある、つまり自分が何か知らないことを創り出す、という、おそらく幻想によってだろう。幻想だとしても、それは消えることはない。
中井英夫があれほど小説に、特に「優れた小説を作ること」にこだわったのはこの幻想があってのことではないか。
澁澤龍彦は長らくエッセイストだったが最晩年、再び小説に志し始め、それがある程度以上の境地に達しかかるときに亡くなってしまったのは残念だ。だがそのコースと達成はとても望ましいと思う。
というわけで、澁澤道というのは、ここ数日書いてきたことを続けて読んでいただければおわかりだろう。正確には近く刊行される私のエッセイ集をお読みください。
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