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三島由紀夫による名解説

1970年、中央公論社刊『日本の文学34 内田百閒・牧野信一・稲垣足穂』は巻末の解説を三島由紀夫が書いていて、この百閒と足穂に関しての解説が大変優れたものである、という話が今回のエッセイ集には書下ろしとして収録される。
この巻の少なくとも百閒と足穂に関しては三島自身が収録作品を決めたようである。
ところが牧野信一についての三島の解説はややおざなりで、どうも百閒・足穂には及ばない、できれば牧野は抜いて二人だけの巻にしたかった、と考えていたように私には思われる。
最近、機会あって牧野の「ゼーロン」を読み返してみたが、やはり好きにはなれない。好きでない以上に、この作品の方法には私としてはどうしても疑問と限界を感じてしまう。
ある種のアンチ澁澤・アンチ三島、そして「自己甘やかしの文学、ナルシシズムはいかん」と一喝したがる評者らは、牧野の惨憺たる道化ぶり(惨憺たるというのは語り手が懸命に道化ているのに読み手は笑えないから)を、自己愛からの脱却の方法として高く評価するらしいのだけれど、やっぱりあんまりうまくない芸を見せられているようで、そのイデオロギーとは別に、私にはただおもしろくなかった。こういう方向なら何より太宰治でしょう。
私は太宰もそんなには好きでないが、しかし、あの芸のうまさには感服する。そしてその芸は三島級に強烈な自己愛が磨かせたのであって、その歪さがよいのである。牧野にはまたまだそういう歪さの自覚が足りなかったのではと思う。
で、作家に対して「小さな自己を捨てよ、大人になれ」とか説教してもいいものはできないと思うのだった。(つづく)

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