ツイッター始めました
これ → 高原英理
1001回記事記念として。主に著書の宣伝のために用います。
書くことはこことあまり変わらないし、リプライとやらも基本しません。
以後、こちらに書くよりはツイートの方が多くなるかもしれません。
それと、準備が整えばツイキャスなんてのもやれるかも。
でもなんかやばくなったらすぐ削除するけどね。
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エッセイ集『アルケミックな記憶』発行・アトリエサード/発売・書苑新社10/14ごろ店頭発売予定。
なお今回が当ブログでの第1000件目の記事でした。おめでとうオレ。
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以前、批評行為はすべての人が常に行っていることだ、と書いた。訂正はない。
批評が評論的形式をとらず、物語の作成として働くと、新たな「小説」になる。
小説のなりたちはこれだけではないだろうけれども、少なくとも近代の小説というのは、どこかに批評意識が反映しているのであって、批評と小説は対立するものではない。むしろ小説は先行する物語を意識しつつ批評的に書かれるのが本来のものなのだ。
そして、書き手が主体的な評論は、先行する「作品」をただの「素材」として使い捨てる。実は小説でもそうしたことはあるが、評論でそれをやると素材とされた作品の作家からの反発が大きい。だがこれもモダニズムの行為と等しいと思う。(つづく)
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「リテラリーゴシック」というのはゴシック小説ではなく、ゴシックと呼ばれる文化にかかわる者から見て、これはいいと思える文学、という意味である。ゴス者から見て「いい」と思えればなんでもよいので、何かの手本に合わせて決めているのではない。
「ゴシックロマンスではないからこれは違う」とか「ゴシック小説としてはこれは認められない」とか決めつけてくる先行者をまず排除した上で、ゴスの方面に興味のある人たちに読んでいただきたい文学、として差し出したものである。
こういう態度、つまり、先行する何かにあわせて批判・否定する意見を予め排除しておくという発想は20世紀初頭の「前衛」のやり方とも近いものがある。
という意味でこれも前衛の発想。(つづく)
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もうひとつの要素は前衛という発想について考えた件。
起源や原点を根拠とした権威を否定する姿勢をここでは特にさす。
すると、先行作品を素材として、新たな作品の制作を意図する評論も前衛的行為である。
柄谷行人が「文学のための評定」としての文芸評論を排したのもそうした態度のあらわれである。
それらは左翼的思想として示される場合も多い。
ただし今回はエッセイであるので、批評それ自体ではなく、批評行為ということについて記した。
またそれとともにモダニズムについて。(つづく)
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ゼロ年代の想像力、というキャッチーな言葉は宇野常寛による著作の題名だったかと思うが、便利なのでときおり使わせてもらっている。
伊藤計劃の二長編はそのよい例と思う。詳しくは近刊書で。
それと、『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』がいくらか、いや、相当、受容されるようになったところ。
1960年代的な愚直さ生真面目さと理想をいだく(嘲笑的でない)この本の核にある志向は、80年代から90年代初頭にはまず受け入れられなかったのではないかと思う。いや、当時のことはもうわからないが、それでも、かつて、ある時代意識によって抑圧され、今は再び望まれるようになりつつある傾向のあらわれ、と考えたい。
また、リヴィングデッドのような、もともとアンチ・ロマンティックなモンスターに、にもかかわらず、感傷性や悲劇性を帯びさせてしまう意識もそれである。
などなど、いずれも刊本でお読みいただけると幸いです。
ここしばらく続けてきたような、意識の年代記、とでもいうべき記述が今回のエッセイ集の主要な要素のひとつ。(この項いったん終了)
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まず「異端」の語は西洋での異端審問みたいなところに発している、それを知っている人は澁澤龍彦も含め、1960年代の「異端文芸」等の言い方には最初相当警戒と自制があったと聞く。
しかし、それに抵抗感を持ちつつも、聖書も何もほとんど意味を持たない多くの日本の読書人にわかりやすく「西洋のダークサイド」を想像させる宣伝文句として用いられることを最終的には肯定し、その後はむしろ積極的に用いている。
それは翻訳だけでなく、「新青年」作家の復権のさいにも、主流ではなく忘れられてはいたが独自の価値を持つ「異端作家」という言い方でいわば敷衍して用いられた。
それだけのことである。
このことを、澁澤の死後にいきなり、「恥ずかしい言葉だ」と見下し、「読者を騙していた」と言い、「異端」などという不正確で大げさな語の「ダサさ」を嘲笑した人たちは、60年代にそれを当人たちの前で言えたのか。同時代に明確な距離を持って、その当時から徹底的に嘲笑揶揄していたのか。
そんな記事は見たことがないのだが、そして、公にはしていなかったがその頃から既にプライヴェートにそういうことを語り合っていた、というのなら、80年代以後もそうしていればよかったではないか。
発言力のある前人が死んだから安心して嘲笑して見せるという態度をとった者を、そのさらに後の者たちは決して潔いとは思うまい。
そしてこの嘲笑という方法が90年代以後の大きな問題となる(つづく)
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それら60年代から00年代にわたる約50年間で最大のインパクトとは何か。
「終末の発見」ではないかと思うがどうだろう。
詳細は刊本で。(つづく)
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戦前に「新青年」を中心とした「探偵小説」エコールが成立した。
1960年代はアングラと「異端芸術」と澁澤・三島エコール、70年代はSFと戦前探偵小説復権と「幻想と怪奇」、80年代は現代思想とそれに覆い隠されたアニメオタク文化の成長期、+ホラー映画全盛、90年代以後はメンヘルとゴス、てとこかな(つづく)
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1970年代がサブカル本格始動の時期だとしたら、1980年代はニューアカとポストモダンの時代、と言われることが多いだろうけれども、現在の様子から振り返ってより重要なのは、70年代に芽を蒔かれ、ある程度成長したサブカル(主にアニメ)が、ジャンルの勃興期によくあるように蔑視・差別された時期といえるところではないか。
クールな現代思想と都会的ファッションとノリのよさ等々の「美しい都市生活」を誇示していた(ただし多くは「あまりできないけど誇示したいと思っていた」)層から一斉に嘲笑・軽蔑され「ああはなりたくない」と言われたのが「オタク」だった。
しかし90年代になるとポストモダンと80年代シティカルチャーは流行として魅力を失い、過去と変わらない熱意で支持され続けたアニメとオタクカルチャーが初めて主導権を得た、といったところが私の見る文化的年代記だ。では80年代は(つづく)
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アンデッド、ウォーキングデッド、リヴィングデッド、と呼ばれているけれども「ゾンビ」というのが一番よく通じるのか。
本来の「ゾンビ」はブードゥー教の呪術師が使う「操られ死体」で、勝手に人を襲うというものではないけれども、そんなことはもうわかった上で、わかりやすく「ゾンビ」と呼んでいるわけだが。
「ゾンビ」の題名で日本公開された映画がジョージ・A・ロメロ監督の「ドーン・オブ・ザ・デッド」で、これが大人気だったのでイタリアのルチオ・フルチ監督があからさまな亜流作品を作って、本国では「ゾンビ2」として公開されたというが、日本での公開題名が「サンゲリア」。
これは実に優れた命名で、「サング」はイタリア語で「血」、「~ェリア」と語尾につくのは「~の人」という意味だから「サンゲリア」は「血の人」という意味、と当時のパンフレットに記されていた。
「惨劇」を印象して名付けた、という説もあるが、上記を信じたい。
むろん、その映画自体がホラー映画として優れていたことが、「ゾンビ映画史」に残る理由だが。
実に怖くて暗くて残酷で、理想的なホラー映画だったと今も思う。このへんが80年代の初め(つづく)
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