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嘲笑という方法

1960年代には方法としての嘲笑はなかったのではないかと思う。敵対するときは真剣に言い合うか、罵りあうか、殴り合うか、でなければ無視するか、いずれにしても真正面から対峙する、でなければ無関係を貫く、というのがその頃のスタンダードではなかったかと思う。スタンダードであるから一部例外は多々あったにせよ、ともかく横からや斜め上から「ぷっ」として見せる、そしてそれが攻撃と自分の優位を示す、というやり方は決して当然とはされていなかったはずだ。
70年代、SF的相対主義の普及と笑いへの傾斜によって、何かを批判する代わりに笑って見せるという態度が発見されたのではないかと思う。
80年代、このとき、嘲笑はひとつの方法として確立する。他者を否定する態度として嘲笑すること、それによって明らかに優位を誇示する、というやり方が普及する。
90年代以後もそれはさらに拡大し、無根拠に自己を優位に見せる方法として堕落的進化を遂げる。(つづく)

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