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批評行為の主体的な場合

以前、批評行為はすべての人が常に行っていることだ、と書いた。訂正はない。
批評が評論的形式をとらず、物語の作成として働くと、新たな「小説」になる。
小説のなりたちはこれだけではないだろうけれども、少なくとも近代の小説というのは、どこかに批評意識が反映しているのであって、批評と小説は対立するものではない。むしろ小説は先行する物語を意識しつつ批評的に書かれるのが本来のものなのだ。
そして、書き手が主体的な評論は、先行する「作品」をただの「素材」として使い捨てる。実は小説でもそうしたことはあるが、評論でそれをやると素材とされた作品の作家からの反発が大きい。だがこれもモダニズムの行為と等しいと思う。(つづく)

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