異端という語への抵抗と嘲笑
まず「異端」の語は西洋での異端審問みたいなところに発している、それを知っている人は澁澤龍彦も含め、1960年代の「異端文芸」等の言い方には最初相当警戒と自制があったと聞く。
しかし、それに抵抗感を持ちつつも、聖書も何もほとんど意味を持たない多くの日本の読書人にわかりやすく「西洋のダークサイド」を想像させる宣伝文句として用いられることを最終的には肯定し、その後はむしろ積極的に用いている。
それは翻訳だけでなく、「新青年」作家の復権のさいにも、主流ではなく忘れられてはいたが独自の価値を持つ「異端作家」という言い方でいわば敷衍して用いられた。
それだけのことである。
このことを、澁澤の死後にいきなり、「恥ずかしい言葉だ」と見下し、「読者を騙していた」と言い、「異端」などという不正確で大げさな語の「ダサさ」を嘲笑した人たちは、60年代にそれを当人たちの前で言えたのか。同時代に明確な距離を持って、その当時から徹底的に嘲笑揶揄していたのか。
そんな記事は見たことがないのだが、そして、公にはしていなかったがその頃から既にプライヴェートにそういうことを語り合っていた、というのなら、80年代以後もそうしていればよかったではないか。
発言力のある前人が死んだから安心して嘲笑して見せるという態度をとった者を、そのさらに後の者たちは決して潔いとは思うまい。
そしてこの嘲笑という方法が90年代以後の大きな問題となる(つづく)
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