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「二十世紀少年読本」とその記憶

林海象監督・三上博史主演、映画「二十世紀少年読本」の音楽から→■■
(浦沢直樹の「20世紀少年」とは別)

足の怪我で軽業ができなくなり、サーカス団から出た青年(三上)は、地方地方で詐欺商売を続け、放浪するが……頼る者はない、行く場所もない。戻る場所もない。
街中に一人いると、ときおり私はこの音楽を思い出して、戦前の街並みの中を寄る辺なく行くような気持ちでひっそりと歩く。

「二十世紀少年読本」については、当時ご存命の淀川長治さんが「前作は遊びだったが、これは本当の映画になっている」というような評価をしておられた。なおこのときの林監督の前作は「夢みるように眠りたい」。

林海象監督の映画は「ZIPANG」も「濱マイク」も近年の「弥勒」もどれも好ましい。
貧しく淋しいところを描いても、世界には不思議いっぱい、というような空気がある。
それでつい私は戦前の昭和を美化したような想像をしてしまうが、いやそんなことはない、酷い時代だったはずだ。でも懐かしい、という感じは続く。
ただし「濱マイク」はほぼ現代、「ZIPANG」も安土桃山期くらいが舞台で、戦前の昭和とは違うのだが、どれも昭和初年に見てきた映画のような気がしてならない。

これからの日本は、戦前のように貧しくて酷いところになっていくのではないかと思うと、やはり映画「二十世紀少年読本」の映像と音楽が思われてならない。
ぼくたち何も生きる理由がないからどうでもいいや、君がよければ一緒に死のうか、という感じの、そんな浮遊悲しいストーリー。

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町田康の『宇治拾遺物語』

『池澤夏樹個人編集・日本文学全集』の古典編(第8巻)に町田康による『宇治拾遺物語』現代語版が入っていてその「こぶとりじいさん」が秀逸だというので読んでみたらやはり秀逸だった。
こぶとられじいさんは鬼の宴会の様子に、踊りたくてたまらなくなり、ただ踊りたい一心で踊りだし、鬼たちはその面白さに感動する。
隣のこぶつけられじいさんは、自分が踊りたいためでなく、それによってこぶをとってもらいたいために踊るのでおもしろくない。
こうして隣のじいさんは鬼たちの不興を買い「もう来なくていいから、これ返しとくわ」ということで、最初のじいさんの分まで、もうひとつよぶんなこぶをつけられてしまう。
鬼たちとじいさんの思惑が違っているのは原作通りだが、その後のところで芸術の神髄みたいな話になっていて(ここが町田さんのオリジナル)、実にいい。

『宇治拾遺物語』にはまた、全説話集中随一のおバカ話といってもよい「中納言師時法師の玉茎検知の事」が入っているが、これも町田訳で読んでみるとやはりよい。
もとがあまりにばかばかしいのでさすがに町田さんもその物語自体に新たな何かを付け加えることはなかった様子だ。
ただ、そこに出てくるインチキ法師について、国の認めた僧侶ではないからこいつはおそらくインディーズの僧らしい、という意味の、原文にない紹介があって、ここでまた笑った。
町田康、何をやってもおもろい男。

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中二病についてふたたび、三島由紀夫・森茉莉 編

中二病というのは便利な言葉だが、長らく抑圧の根拠になったのは困ったことだった。
もともとこれを言い出した伊集院光の真意は「自分の過去を恥ずかしがる」だけだったのに、今では大半、「他者のイタいところを揶揄するために用いる言葉」になってしまっている。
でも便利だから使っちゃうんだな。
それと、一度そういう揶揄の現場を通過すると「はい。中二病ですが。なにか?」と言えてしまうので、心当たりのみなさん、ひとまずあの険しい山を越えましょう。

考えてみればかつて、三島由紀夫や森茉莉の世界に心酔し、「一般人」を軽蔑していた耽美の人たちが、あるとき、いきなり誰かから「ぷっ」と笑われたら、ショックだったと思うんだ。自業自得ではあるが。
だが本当の耽美の求道はここから始まる。
他者は自分の都合のよいようには見てくれない。そこで「はあい、もう馬鹿やめまーす」という人はそれでよいが、「でもやっぱりわたしはこれが好き」な人はもう一歩考え深くなるわけですね。
先行する文豪たちの用意した耽美をそのまま自分のもののように感じて、考えなしにいい気になっていた人は、このとき、ひとつ学ぶのだ、耽美フィクションなんて架空のものなんだから、もともと現実の人たちの強さには勝てない。
それは恐ろしく巧緻な手腕あってようやく他者をそそのかし参加させうるプロパガンダみたいなもので、鍛錬の結果なのだと。
そういう他者への姿勢の極め方は三島由紀夫が既に示していた。
よく読めば三島は全く「いい気」になっていない。森茉莉はちょっとそこまでいってないと思うけど。
なお、茉莉は上流階級の冷酷さを身につけていたところが他と大きく違うだろう、だが実のところ、晩年の「ドッキリチャンネル」等に見えるそれは近年のオタク女子のメンタリティとそうは変わらないようにも思う。

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文学とか。

「虚無への供物」「聖少女」。世界に冠たる中二病文学。
だがこれらを人は「中二病」とは呼ばない。なぜならいずれも中二病らしくない大人のレトリックによって書かれているから。そして魅力的だから。魅力的な中二病文学はただ称賛される。「何やっても受け入れられる、ただしイケメンに限る」に近い感じ。
文学の世界(実は芸術の世界すべてだが)では魅力的でさえあれば何をやってもよいが、魅力的でない作品はどんなに志が正しくても棄てられる。
とはいえ、そこでの「イケメン」が一元的に決められるわけではないことが救い。けっこう蓼食う虫が多い場所でもあるのが文学の豊かさだ。
ただし、読者を誘い込まない文学が棄てられるのは同じ。思想的な重要性とか作家個人への興味とかも発表時期をしばらく過ぎれば意味をなくす。
最後に残るのは語り口や修辞、読み手をのせてしまう勢い、そして何かを思い描かせてしまう喚起性、何かがその言葉にしかないと思わせる不条理な誘い。

純文学には、最低の性悪なのに容姿が美しいため愛されすべての傲慢が許されてしまう美女(ヘテロセクシュアルの男性から見てのたとえ)のような作品が多数ある。
エンターテインメントの場合、そこまでの退廃はあまりなく、どこかで健気であったり律儀であったり真っ当であったりする作品が多い。
でも無垢とか健気とか純真とかそういうところに本当の危険はある。そういうのばかり愛する社会はいつか全体主義に向かうだろう。私も好きなんだけどね。

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清家雪子『月に吠えらんねえ』とそのほかの件

『月に吠えらんねえ』作者・清家雪子さんとデザイナー・芥陽子さんを招いてのトークショーが金沢の石川近代文学館であった。
愛読はしているが金沢は遠いと思っていたら、家人がすべて予約の後、連れて行ってくれた。昨日、参加、無事帰宅。事前にサイン会もあったが、こちらは家人のみ参加した。

『月に吠えらんねえ』は青年誌「アフタヌーン」に連載しているが、何かをゲットするためにストーリーが進む種類の漫画ではない。
どこまでゆくかわからない、心の旅路のようなものを細密に画像化し台詞をつけたもののように思える。
創作者の意識を深くのぞき込むところが優れている。最近は深くのぞき込みすぎて、こちらがのぞき込まれている気がする。

『月に吠えらんねえ』の作者はきわめて知的な人のように見受けられたが、最近の連載ではかなり危ういところまで踏み込んでいる。だがそれはある種の教養と智があってこそと思える。

作者にフェミニストの身振りはあまりなく、むしろフェミニストならまず否定すべき高村光太郎と智恵子の関係を、従来とは異なる、創作者側の視線として描いている。
ただし、フェミ知らずなのでは決してなく、白(白秋の作品からインスパイアされたキャラクター、非常にもてる)についての醒めた記述はあきらかにフェミニズムを通過したものであり、読者にもそれは当然の視線として共有されている。

一頃のようにその女性がフェミニストか否かは今では意味がない。
知的創作物にかかわる女性はたとえフェミニスト的な身振りが全くなくても、必ず一度はフェミニズムかそれによって成立した思想を通過している。
そこを見落としているために、最近のある種の日本映画は失敗している。
対して「マッドマックス 怒りのデス・ロード」の大成功の理由のひとつは、これまでに通過したフェミニズムを成立要素として組み込んでいることによる。
日本ではフェミニズムだけが忌避され、エンターテインメントに組み込まれていない場合が多い。だがフェミは今や人気を招く要素の一つなのだ。

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批評がいらないどころか

すぐに「批評はいらない」呼ばわりをするレベルの低い創作者たちは、実際には「オレをほめてくれる批評以外いらない」の心を隠している。
なお、以前記したように、「批評はいらない」はそれ自体が批評であり、自己否定していることに気づいていない。この言葉を発しているときその人自身が最低の批評屋なのだ。
ところで、何年かおきに「純文学なんていらない」という意見が、主によく売れているエンターテインメント作家から発せられるように思うが、さらに注目するとそういう作家はSF・ミステリの中央には属さないエンターテインメント作家であるように思う。
というのも、SF・ミステリの世界では、まず必ず新作はいろいろと批評されるし、中でよいと認められたものは名作として語り継がれる。
そういうところにいる作家たちは、わざわざ純文学の優遇されよう(売れてないのに評価だけはされ、よく言及される)を嫉妬しないのではないか。
一概には言えないが、ただ確実なのは、作家は誰しも自作への綿密な批評に飢えているということだ。そういう呪縛から離れるには村上春樹級に「高く評価され/よく売れる」の状態がないと難しいだろう。
そして、売れているがSF・ミステリにはあまり属さない作品が多い、かつ「純文学なんか潰せ」発言をする作家というのは、売れることを称賛されても内容の分析などされないことに苛立っているのではないか。それに対し、純文学作品は売れもしないのに毎月、月評や時評でいろいろと言及されている。腹立たしい、となるのではないか。そして純文学がなくなれば自分の作品がもっと丁寧に批評されるはずだ、と考えるのではないか。

しかし、これは実は構造的に無理があって、純文学作品が徹底的に批評されうるのはその作者たちがベストセラーエンターテインメント作家ほどは業界内で権力を持っていないからである。もうひとつ言えば純文学の世界では少なくともエンターテインメントの世界よりは批評家の地位が高い(最近は激下がりではあるが、それでも)。
よく売れる作家は既に権力者である。だから出版社側としても、気を損ねないよう細心の配慮をする。そうなると、内容に立ち入って、批判・否定の出かねない本来の「批評」は避けられ、ただ売り上げへの称賛だけが許される。
というわけで、あんなに売れて、出版社からも厚遇されているはずなのに、ないものねだりだなあ、でもそういうところが小説を書かせるのだなあ、とたまたま、思った。
それと、売れていれば自分は問題ないのにわざわざ貧しい分野が得をしているから許せない、ってこれ、「生活保護全部なくせ」の思想と同じだなあ、ともね。

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ヤスポンじゃなくてユキポンにあげてほしかった、ノーベル賞

毎年、ノーベル賞の特に文学賞が決まる頃になると思うこと。
川端康成にではなくて、三島由紀夫に受賞させてほしかった。
これは私ばかりではなく、他にも同じ意見の人の言葉を読んだことがある。
どういうことかと言えば、そうすれば、二人とも自殺しなかったかもしれないからだ。
三島由紀夫は、1967・8年くらいの頃、「このまま文士やってても結局サエないなあ、武士になって死のうかなあ」と考えていたらしいことが当時のエッセイでわかるが、ある人が言うには、そのころ、『豊饒の海』四部作というこれまでにない長編にとりかかっていて、なかなかこれができず、そのため、発表した作品への反響を聞くことも多くはできず、話題に上ることが以前より少なくなっていることにだんだん焦れてきていたらしい、とのことで、もしそれが本当なら、ここでノーベル賞などを受賞していれば、存分にもてはやされ「やっぱオレ文士やるわ」で、自殺まではなかったかもしれないというのだ。
川端康成については、孤児だったこともあり、周囲の人とのつながりをとても大切にした人で、そのため、有名になってからは義理のある人には決してそれを欠かさず、議員に立候補した知人(結果、落選)のために応援演説までしている。
ノーベル賞受賞などという未曽有の大名誉を得た後は、さぞ、その名を頼ってくる人が多かっただろうし、川端はそれに律儀に答えようとしただろう、出版社ジャーナリズムからも依頼が殺到しただろうし、それに応じようとしていると、もはや自分の時間もなかなかとれなくなっていたのではないか。もともと不眠症だったのが、多忙と人付き合い過多とで悪化し、睡眠薬の量は増え、そのうちに決定的な鬱状態になってもおかしくない。
川端の自殺のきっかけはいろいろ沙汰されているが、実のところ、慌ただしく落ち着かない立場と不眠と義理にせかされ続けたことがその最も大きな理由ではないかと思う。受賞がなかったらそこまではいかなかったはずだ。
川端はノーベル賞を受賞していなくても、もう既に日本文学の重鎮だったのだし、それならむしろ三島に受賞させていればよかったではないか。話題にされることが何より好きな三島であれば、ノーベル賞受賞後は、いよいよ生き生きと作家活動を続けたに違いない。
と、こんなふうに惜しくなるのである。

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『アルケミックな記憶』書影と目次

高原英理『アルケミックな記憶』 アトリエサード発行 書苑新社発売 書影

Photo

装画は永井健一さん、編集は樋口ヒロユキさんにお願いしました。御礼申し上げます。

以下、目次

『アルケミックな記憶』 目次

まえがきに代えて 読むこと、読んで書くこと、読むべきときを待つこと

【1】 好きなもの憶えていること

  1 お化け三昧
  2 骸骨の記憶
  3 貸本漫画の消えそうな記憶(1)怪奇漫画編
  4 貸本漫画の消えそうな記憶(2)少女漫画編
  5 とうに死線を越えて

【2】 自分と自作について

  1 幻想文学新人賞の頃(1)
  2 幻想文学新人賞の頃(2)
  3 著書の履歴
  4 批評行為について
  5 リヴィングデッド・クロニクル

【3】 なんとなくあの時代

  1 大ロマンの復活(1)
  2 大ロマンの復活(2)
  3 我等終末ヲ発見ス、以来四十有余年
  4 日本SF、希望の行く末
  5 テラーとタロー、そしてある論争について

【4】 アンソロジーを編んでみて

  1 『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』成立のこと
  2 ゴシックハートに忠実であれということ
  3 作家の選ぶアンソロジーについて

【5】 失われた先達を求めて

  1 中井家の方へ
  2 澁澤家の方へ

【6】 タルフォィックなはなし、シノブィックなはなし

  1 足穂(A)とそして信夫(B)と
  2 tAruphoic (1)モダニズムという不遜な作業
  3 tAruphoic (2)未来への不安をやりすごすということ
  4 shinoBuic (1)下降する美童たち
  5 shinoBuic (2)男性を学ぶ学校

【7】 思うところあれこれ

  1 意識の杖を持つこと
  2 意識の溝を巡る
  3 詩のための作為と物語のための作為
  4 頽廃いまむかし、あるいは三島由紀夫の投機
  5 かわいいという俗情

あとがきに代えて 自由で無責任でありがとう

以上です。 定価2200円+税 10/14頃店頭で販売。アマゾンでは注文後入荷とのこと。

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詩の発生と小説の発生

以前、当ブログにこんなことを書いた。

(1)夕暮れのたびに取り返しがつかない気持ちになった小学生の頃。 2006/10/11

(2)容姿のよい、人気のある、頭のよい、才能のある、そんな少年たちだけのクラブがあると思っていた中学の頃。 2006/10/06

(1)はその比較を絶する絶対性としての詩の発生である。
(2)は序列と価値の認識が始まることで、ある価値観への過度の傾倒によって、事実を逸脱した憧憬を形成しながら、飽くまでも相対性と限定をあらわにしているという意味で小説の発生といえる。

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