文学とか。
「虚無への供物」「聖少女」。世界に冠たる中二病文学。
だがこれらを人は「中二病」とは呼ばない。なぜならいずれも中二病らしくない大人のレトリックによって書かれているから。そして魅力的だから。魅力的な中二病文学はただ称賛される。「何やっても受け入れられる、ただしイケメンに限る」に近い感じ。
文学の世界(実は芸術の世界すべてだが)では魅力的でさえあれば何をやってもよいが、魅力的でない作品はどんなに志が正しくても棄てられる。
とはいえ、そこでの「イケメン」が一元的に決められるわけではないことが救い。けっこう蓼食う虫が多い場所でもあるのが文学の豊かさだ。
ただし、読者を誘い込まない文学が棄てられるのは同じ。思想的な重要性とか作家個人への興味とかも発表時期をしばらく過ぎれば意味をなくす。
最後に残るのは語り口や修辞、読み手をのせてしまう勢い、そして何かを思い描かせてしまう喚起性、何かがその言葉にしかないと思わせる不条理な誘い。
純文学には、最低の性悪なのに容姿が美しいため愛されすべての傲慢が許されてしまう美女(ヘテロセクシュアルの男性から見てのたとえ)のような作品が多数ある。
エンターテインメントの場合、そこまでの退廃はあまりなく、どこかで健気であったり律儀であったり真っ当であったりする作品が多い。
でも無垢とか健気とか純真とかそういうところに本当の危険はある。そういうのばかり愛する社会はいつか全体主義に向かうだろう。私も好きなんだけどね。
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