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批評がいらないどころか

すぐに「批評はいらない」呼ばわりをするレベルの低い創作者たちは、実際には「オレをほめてくれる批評以外いらない」の心を隠している。
なお、以前記したように、「批評はいらない」はそれ自体が批評であり、自己否定していることに気づいていない。この言葉を発しているときその人自身が最低の批評屋なのだ。
ところで、何年かおきに「純文学なんていらない」という意見が、主によく売れているエンターテインメント作家から発せられるように思うが、さらに注目するとそういう作家はSF・ミステリの中央には属さないエンターテインメント作家であるように思う。
というのも、SF・ミステリの世界では、まず必ず新作はいろいろと批評されるし、中でよいと認められたものは名作として語り継がれる。
そういうところにいる作家たちは、わざわざ純文学の優遇されよう(売れてないのに評価だけはされ、よく言及される)を嫉妬しないのではないか。
一概には言えないが、ただ確実なのは、作家は誰しも自作への綿密な批評に飢えているということだ。そういう呪縛から離れるには村上春樹級に「高く評価され/よく売れる」の状態がないと難しいだろう。
そして、売れているがSF・ミステリにはあまり属さない作品が多い、かつ「純文学なんか潰せ」発言をする作家というのは、売れることを称賛されても内容の分析などされないことに苛立っているのではないか。それに対し、純文学作品は売れもしないのに毎月、月評や時評でいろいろと言及されている。腹立たしい、となるのではないか。そして純文学がなくなれば自分の作品がもっと丁寧に批評されるはずだ、と考えるのではないか。

しかし、これは実は構造的に無理があって、純文学作品が徹底的に批評されうるのはその作者たちがベストセラーエンターテインメント作家ほどは業界内で権力を持っていないからである。もうひとつ言えば純文学の世界では少なくともエンターテインメントの世界よりは批評家の地位が高い(最近は激下がりではあるが、それでも)。
よく売れる作家は既に権力者である。だから出版社側としても、気を損ねないよう細心の配慮をする。そうなると、内容に立ち入って、批判・否定の出かねない本来の「批評」は避けられ、ただ売り上げへの称賛だけが許される。
というわけで、あんなに売れて、出版社からも厚遇されているはずなのに、ないものねだりだなあ、でもそういうところが小説を書かせるのだなあ、とたまたま、思った。
それと、売れていれば自分は問題ないのにわざわざ貧しい分野が得をしているから許せない、ってこれ、「生活保護全部なくせ」の思想と同じだなあ、ともね。

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