« 2015年10月 | トップページ | 2015年12月 »

昨夜の会話2014版ゴジラ編

たまたま話が2014年版ハリウッド製「ゴジラ」についてのことになったのだが、ゴジラもよかったけれども、敵対怪獣として出てくるMUTO雌雄のなかよしぶりが印象的だったという件。
こんなイメージか↓(こういうのはオタク界隈ではもうあたりまえの話と思うが)。

ムートー♂「はい、ミサイル」
ムートー♀「あんがと。もぐもぐ」

ゴジラ「リア充爆発しろ!」ゴワー
ムートーたち「あーれー」

 (※ 正確には一体ずつ倒されます)

いや、ゴジラにとってはゴキブリみたいな駆除対象なので、仕事できる人らしく、冷静に機会は逃さずさくさくと退治してましたけどね。

| | トラックバック (0)

「いまとここと現代短歌」追記

昨日に少し付け加え。
短歌の世界にいて楽しい、にとどまらず、「外の」(と敢えて言う)読者にも読まれたいという件について。
このあたりは以前から穂村弘も言っていたことと思う。
穂村さんはよく読まれているエッセイストでもあるが、その散文的活動は最終的に(短歌だけとは限定しないが)自分の詩歌的世界へと導くことをどこかで意図している、というような話だったと思う。
では、短歌なら短歌が歌人以外によく読まれるには?

この場合、「外」と言ったって全然文学に無縁の人をいうのではない。
大抵は、小説は読む、くらいの文学好きで、ふだん短歌には馴染んでいない読者、にも、という意味である。
だが短歌なら短歌には、独自の鑑賞の仕方があって、そのままでは難しい場合もある。
といってただ分かりやすくすればよいのではない。
読み手のことを意識して作る、という意見は正しいが、それも、文学的への興味によって導かれた、ある程度の教養ある読み手を対象として、ということで、対象を無知の人にまで引き下げる理由はない。
そうではなく、たとえば最も読者の多い小説というジャンルの読者になら、どうやって短歌を鑑賞してもらおうか、というような意味である。

はっきり言って、これ、という妙案があるわけではないが、試みとして、自分がやってみたことを宣伝交じりに記す。
私は『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』と『ファイン/キュート』というアンソロジーを編集した。
それら自体の選択は各々の本の理念によるが、双方とも、小説・詩・短歌・俳句・随筆をできるだけ均等に収録した(とはいえやはり小説が最も多くなりはしたが)。
作品を選ぶというとき、あるテーマによって決めるが、できるだけジャンルによっては分けない、という態度を私は実践し、推奨する。

いつも言うのだが、文学は小説だけ成り立っているのではない。
同時に別ジャンルが見渡せるやり方を多くの人がやればよいと思う。
それは一方、たとえば歌人であれば、小説はむろんのこと、詩、俳句、随筆、評論、戯曲、という「外の」ジャンルをも短歌と同じくよく知ろうとする意志の推奨でもある。
短歌を、「外の」人にも読んでもらいたいと願うなら、自身も「外」をよく知りたいと思うのが自然ではないか。
抑圧的な言葉として聞かないでほしい。どんなジャンルにも自分が愛せる作品はあるという希望を共有したいと言っているに過ぎない。

その意味で、催しの中、木下龍也さんに選ばれ、とはいえ短歌としてはそれほどでもないという意見もあったが、以下の歌、

人のセックスをわははわはははわははははははははははははは (加賀田優子・作)

上の歌のよさは認めたい。
これは短歌の世界よりも現代小説に親しんでいる人に向けてのジョークである。
私などは大笑した。むろん効きのよいジョーク以上ではない、という意見もあるだろうし、否定しないが、しかし、とにかく私のように常々は小説の方が主である者にとって、ともかくおかしいから◎

現代小説という意味では、山崎ナオコーラの作品題名だけ知っていれば「わはは」の歌はわかるが、それさえ知らない人にはわからない。

このあたりを私は境界とする。
「山崎ナオコーラくらいまでは知っている層」に向けて、短歌でも小説でも書くことが生産的ではないかと思う。
「山崎ナオコーラくらいまでは」というのは山崎ナオコーラなどを一例とする現代純文学の意味ね。できれば木下古栗くらいまで、とも言いたいがそこはやや難しいか。
純文学関係にある作家を全然知らない人を中心対象にするのはちょっとな、ということである。

ついでにもうひとつオタクな補足。
催しの中で、江戸雪さんが以下の歌、

ぬるま湯を粘土にかけて混ぜておりジャミラのように悲しい昼は  (笹公人・作)

の、ジャミラについて僅かに言及されたが、ここで補足する。
ジャミラは肌が粘土のようで、しかも水をかけられると死ぬ。
ウルトラマンの指先から放水された多量の水を浴び、地に伏し、もがきながら死んでゆくジャミラの痛ましさ哀れさをも思い起こしつつ読みたい歌である。
しかもその泣き叫ぶ声には、赤子の声を混ぜて用いていた。
一度見た人には忘れがたい「ウルトラマン」中の不条理かつ悲しい一編である。
なお「ジャミラ」はフランス人の名で、もと人間である。自分を宇宙に見捨てた地球人に復讐しに来たのである。そして国際平和の名のもとに抹殺される。

こんなことは「ウルトラマン」を知る人には言うまでもない。
だが、会場にはここまでは知らなかった人も確かにいたと思う。
単に提出するだけではなく、読み手に親切な手引き、をめざすとき、それは「そんなこと知ってる」と言われるかもしれないややださい態度にもなるときがあるだろう。
でも、誰にも目こぼしなく、その面白さを示せるのなら、ださくてもいいじゃないか。

| | トラックバック (0)

「いまとここと現代短歌」

11/14は中野サンプラザで行われた「いまとここと現代短歌」という催しに出席した。
自分自身の短歌も過去数百首ほどあるが最近はあまり詠じていない。
が、それでもある一定の共有知識といくらか詠歌の錬磨を経ているので、自分がうまいか下手かは別として、よく通じる話と感じられた。
この共有知識と技法の鍛錬、そして読み方の経験は、その気があれば誰でも手にできるものである。
そのさい、「才能」云々も関係ない。短歌の世界に入りたいという意図だけでよい。
ただしそれらなしでは、そこに入ることはできても楽しくはなかなかならないだろう。

最近ではかなり薄くなった、と言うにしても、短歌の世界にはなるほど確かに外部との壁がある。
口語なら大抵わかるとしても、全く文語やら近代短歌・前衛短歌やらの知識を求める気がないと、長く居る人にはなれないだろう。
いつでも出ていける。しかし知と技を育めば楽しいらしいこともすぐわかるだろう。
少しだけ薄い壁に囲まれていることが短歌の愉しみであり、いつでも出ていけるが面白いから出ないでいる、というのが歌人なのではないか。
「進撃の巨人」のように外が地獄なのでもなく中にいないと死ぬわけでもなく、壁が壊れれば全滅するということもない。ただ好きでそこにいる。

そしてその薄い壁は、当人の意識によってより薄くもあるいはより厚くもなる。
どんどん濃い話をしたければ敢えて高く厚い壁を築いて、そこでよくわかる仲間とともに歌を詠み合い読み合うのもよい。
もっと高さを下げて、入れる人を増やしたいというならそれもよい。

だがその壁が全くないと考えたがるのは間違っている。
短歌は、そこに参加したい人がいくらか以上は学習するというプロセスを経てその世界を鑑賞し創作するものであり、たまにひどくポピュラーな詩歌が多くに読まれても偶然に過ぎない。それをのみ求めることに私は反対する。

ひたすらに開かれなくてはならない、という発想は、そもそもの文学自体の否定に通ずる。
私はあまりに「わかってない」「知ろうとしないままでよしとする」人たちと文学をやりたいとは思わない。

それらの最も基本にあるのは、楽しさの追求である。
シリアスな過酷さを重要視するあまり、傍若無人で無礼な発言を「野生のすばらしさ」などと持ち上げるのは間違いである。
文学の世界の「野生」は野生をよく演出できる技法という意味である。
当人の人間性の低さを誤って称賛してはならない。
ゲームのルールを破ることがよいのではない。それをおもしろく破ることができる人だけが達人なのだ。
一見重く厳しそうであっても、どこかに、読み手・書き手にとっての愉しみが見える営みでなければ、そこは早晩、人のいない広場になってしまうだろう。

私はいつも思うのだ、みんなで楽しくやろうぜ、そのためなら少々苦しくとも学ぶし練習する。
子供が野球を学ぶのとそれは変わらず、そこには抜かしてはならないプロセスがある。それあってこそ楽しめる。

一言付け加え。「楽しいければそれでよい」という意見にも私は賛成しない。本当に文学を楽しむということの得難さだけをここでは念頭に置いている。

なお、短歌の世界にはあまり怖い人がいない、というのが以前からの、そしてやはり今回もの、ごくゆるい感想である。

| | トラックバック (0)

有名・無名意識の軋み

ちょっと重いことだが一昨夜気になった件。
ある作家に関する権威と目されている人がその作家に言及していたら無知な人が「お前何様だ」と非難してきた。
それは無知だからだが、それだけでなく、「著名人・権威ある人でなければ言及するな」という意味合いもあった。
それに対して、言われた人は、「『無名者はものを言うな』というのは非生産的である」、と記していて、この人の考えには全面的に賛成である。
一方、この場合の有名無名の判断が、当人の乏しい知識のみでなされていることもさることながら、じゃあ君から見て発言してもいい人って誰か、と問いたくなった。
そこで当人に問いただせばよいかというと、既に語り合うに足りない人であることが確定しているので、無関係でいようと思った。
もし仮にその人から何かこちらへ物言い出してきたら直ちにブロックします。
だがそのことよりやはり心に残るのは、無名者にはものを言う資格がないという本人の勝手な決めつけだ。
それはどう見ても著名人でない当人にとって、じりじりと自分の身を焦がす苛立ちとともに発せられていると私は思う。
つまり「何様?」と問うたその人が、もともと「こんな無名な自分には誰も注目してくれない」ということにひどく不当感をいだいているため、逆に、「お前程度が私以上に偉そうにすんな」という攻撃として表出されてしまうということだ。
ここで大抵の人は「ああ、ダメな人だなあ」となるわけだが、しかし小説家なら、その捻じれに捻じれた、不機嫌な意識のあり方に、より近づいて考えざるをえない。
飽くまでも当人とつきあうのは嫌だが、その、権威が欲しい、そして権威がない(と思える)のに偉そうな奴を非難したい、という意識は他人事ではない。

正しさという意味では「無名者は黙れ」などというのは論外である。
だが、小説はその論外の愚かさを生じさせるものの跡を追うのだ。

なお、誰が見ても有名人である相手には「何様?」という攻撃は起こらない。
(無知ゆえの場合も含み)自分がその相手を知らなかったとき、「無名なのに不当だ」となる。
それは、富豪や大企業の税金逃れには何も言わないのに、生活保護を受けている貧しい人が僅かに多く得ていると聞くと徹底的に憎み非難する態度と似ている。

その人には、大きく強く著名で権威ある状態だけが「公に発言できる資格」であると認識されている。
実際にはそれが自分にないこと、そして自分はこの程度なのに、自分と同等かそれ以下(とその人に認識される)者が自分以上に発言することを許さないという意識がある。

一番平和な解決は、その人がその人の望むほど有名になり、みんなから尊敬されることだ。
そしてこの状態は結果として有名になった人だけが享受している。
そこには努力もあるだろうが他者には見えてこない。ただ運がよかった、ただ最初からよい立場にいた、とそんなことばかり目につくだろう。
ここで、権威を欲しがる人を、では、非難できるのか、ということになると、「そいつがクズなだけ」として終えるのもやはり、私には納得いかない。
権威や著名さの獲得には確かに不公平な何かによる場合もあると感じられるからである。

その不条理に負けてゆく人の愚かさと情けなさを小説としていつか存分に語りたい。

| | トラックバック (0)

本日の文学話

文学者にはほぼ誰でもダークサイドがあるものなのだが、たとえば寺山修司(覗き事件)、川端康成(「眠れる美女」事件・自殺前後のいきさつ)、江戸川乱歩・稲垣足穂(少年愛にかかわる秘事)あたりを、知る人から聞いているとダークというよりダーティーな気もしてくる。
そこいくと、三島由紀夫は同性愛の件であれこれ言われるけれども、現在の私から見て、その嗜虐趣味はダークかもしれないが、どこにもダーティという印象はない。「退廃文学を真面目に愛する」人だけあって、真っすぐに思える。
太宰治とかそういう方になるとダークというのでもなく、ダーティとも思えない。もともと紳士の欺瞞からは遠いからか。そのかわり、ダメティ、かな。
澁澤龍彦にもこりゃダメだ的なところは多くあって、伝え聞く、ある場合の女性への態度はかなり酷い。
中井英夫にはやっぱりダーティ部分ありますね。全集のとある解説でも読み取れる。僅かに聞き及ぶところでもかなり酷くてしかもダーティ。
「バンビ」の作者ザルテンは、匿名で、幼女を主人公にしたポルノグラフィーを書いていた、というような、そんなショックがいたるところにありますね、文学。
なお、かつては身分差と社会的階層差別が露骨だった(今はまた拡大しているといわれるがソフトに隠している)から、立場のよい者が最も卑しいことをしてみるのがある種の悦楽だった、ということもありうる。作家は本来はぐれ者だが、成功し有名になると皆手のひら返したように尊敬するし。
でも寺山さんなんかはもうそんなこととは別に誇り高い変態とも言えるか。でも覗きはなあ。やられるとヤだよね。
詩の世界でちょっと乱歩的なグロテスクを表出した萩原朔太郎は、どこまで聞いてもどうもそういうダーティなところがなくて、とても小心なイイ人(その上無駄にイケメン)、ただしこの人も徹底的にダメティ人であった。
最近だと、現役作家のやばい部分は今のところ絶対口にされないだろうけど、この先、ペドフィリアにかかわる性向はかなりチェックされそうである。クスリ・酒・賭博、そんなのは全然ダーティじゃないし。
そこへ行くと近年の作家に関する問題として大きいのはメンヘラー系ではないかと思う。もう絶対関係したくない人の話はたまに聞く。
女性作家で酷いという評判は林芙美子の話が有名か。敵対する相手のことは徹底的に汚い手で貶めたらしく、葬式で川端康成が「こんな人ではありますが亡くなってしまったのでどうかご冥福を祈ってやってください」とかなんとか話したとか。
林芙美子の葬儀に是非と呼ばれて、全然思い入れなく出席していた三島由紀夫が「なんでこんなのに出なきゃなんねえの」と言ったとか。なんだか。
田村俊子はそういう酷さはなかったようだが、今聞くとかなりメンヘラーだったようにも思う。
森茉莉はどうでしょう。この人も三島と似ていて、あああんまり、とは思うところはあっても、また、こりゃつきあいたくねえなあ、とも思うとしても、やっぱり汚れた感じはしない。子供みたいだが子供の酷さは十倍増しくらいはある。
志賀直哉は、あるとき、自分を尊敬して会いに来た斜視の青年に「きみぃ、目があっちとこっちに向いてるからどこ見てるかわかんないよ」と平然と言ったという。超無神経。生まれつきいい家で、資産あり身分あり、イケメン、モテ、作家的地位早くからあり、と揃ったせいともいえるが、やはり素質かな。
なお、志賀直哉はエピソードに満ち満ちた人で、相当晩年、友人たちの集まった場で、鴨居から逆さまにぶら下がり、「はい、コウモリ」と言って見せたとか。

| | トラックバック (0)

あいかわらず文学について

いつも話が同じ結論になる人たちっていますね。
その人たちの幸福を侵害する気はないのでいちいち反論はしないが、傍で聞いていてうんざりげっそりするのも自分の場合事実なので、そういう「ああやんなっちゃった」の反動が私の文学でもあります。
そういえば父もその種のルーティーン会話がすごく嫌いで、ありきたりだけの世間話が好きでない人だった。
父は文学者ではないが、一般会社員にしてはとても文学に詳しかった。そういうところがうけつがれてるのだろうか、自分。
先日、「純文学心」といったのはこのあたり。かな。
本来は「文学心」でいいのだけど、ってそのときも書いた。
現生活上から少しだけ違う次元の言語空間が現出するような行為を私は文学と呼びます。

ただし文学・必ずしもオリジナルな言い方を尊ぶのではないという例。
以前、木下古栗に、新聞で繰り返し使われる言い回しには飽き飽きだなあ、って話をしたら、「お、それ、今度使いまわしたい」と彼は言った。敢えて紋切型の言葉を使ってそのことをおちょくろうとする意識に文学心を感じた。

| | トラックバック (0)

純文学心

純文学心。
本来なら「文学心」でよいのだが、あえて限定した言い方にする。「純文学なんて」っという人が今も絶えないから。
何を言うかといえば、エンターテインメント作家にも純文学心はある、ありうる、ということ。
じゃあそれは何かといえば、まず、同じことだけをやっていたくない気持ち。
あるジャンルで、そこでは必ず歓迎される、という王道があるとすると、いつもそれだけでいたいという人は案外多くないと思うがどうだろう。ちょっと違ったことをしたい、少し外してみたい、という気持ちはないだろうか。
それが純文学心だ。
特に前衛でなくてもよいし、世に言うジャンルとしての「純文学」だけでもない。
「純文学」っていうと、作者の思惑だけをもとにして読者のことなんか考えていない勝手な面白くない小説、と思っている人もいるかもしれないが、実はエンターテインメントの約束に飽きた読者にはとても面白く読めるものが多い。
それは、ルールにただ従わないでいじってみるという二次的な創作の意識があるからではないか。
純文学心の中のひとつのモチベーションは、二次創作的心性でもある。こういうのを全然持たないエンターテインメントを私はあんまり好まない。
こんなことを考えるのは、なんか「読者のために書く」とかいう言い方が嘘に思えるから。
それと「読み手を意識せず作家主体で書くなんてただのナルシシズムだ」などと言って安易にアート的な作品を非難するのも納得できない。
それらについて「こんな文脈があるからそこに従って批判する」、というのだとしたらそういうのが純文学心を阻害するものだ。
純文学心は既にある何かには従いたくない心である。
新しいことをしたい=純文学心、ということもできる。
そのためには一度は古いことを知らないとできないけれども、とはいえあまりに過去にとらわれる必要もない。
それより、大阪で言う「いらち」な気持ちがどこかにある。

今の自分にとって、ある未知の作品を「エンターテインメント」として差し出されること自体がちょっと残念だ。「未知の作品」でよいと思うのだが。
でもそういう言い方は商業的に成り立つ場ではありえないし、たとえ純文学でも「ほらこんなに面白い」という評判がないとなかなか本にはならない。
いや何か文句が言いたいわけではないのです。「純文学心」、これを「いいもの」としておきたいというだけ。
とてもよいエンターテインメント作品には「純文学心」があるということ、そしてジャンルとしての純文学作品だから常に「純文学心」があるとは限らないということです。

ところで以上は先日書いた町田康の「こぶとりじいさん」関連の発想だったと今わかった。
あれは、表現欲に先導されてどうしても踊りたくて踊った踊りが面白くて、踊って見せることによる報酬だけを目当てに踊った踊りはつまらなかった、という話に、町田版ではなっている。
よく言われる「作家になりたいから何か書く」のでは無理、「どうしても書きたくて、気づいたら作家だった」というのが作家の成り立ち、みたいな。実際の作家誕生がいつもそんなというわけでもないんだけどね。
とはいえ、下手だろうが見栄えが悪かろうが、何かしたいことがあってする、というのが、ものの本来だ。
確かにこういうのはあまり結果を意識してしまうといかんのです。もう何かに憑かれるようにして行うことはなるほど後から見ると成功していることが多い。
ただし、その現場では成功なんて考える必要もないくらい、「今やっていること」に懸命なのだ。
そういう場合、他者に見てもらうことすら、どうでもよくて、そうすると「読者のために書いてます」というのも、本当にそれでいいものになんの? って聞きたい気になる。

というわけです。

| | トラックバック (0)

« 2015年10月 | トップページ | 2015年12月 »