昨日に少し付け加え。
短歌の世界にいて楽しい、にとどまらず、「外の」(と敢えて言う)読者にも読まれたいという件について。
このあたりは以前から穂村弘も言っていたことと思う。
穂村さんはよく読まれているエッセイストでもあるが、その散文的活動は最終的に(短歌だけとは限定しないが)自分の詩歌的世界へと導くことをどこかで意図している、というような話だったと思う。
では、短歌なら短歌が歌人以外によく読まれるには?
この場合、「外」と言ったって全然文学に無縁の人をいうのではない。
大抵は、小説は読む、くらいの文学好きで、ふだん短歌には馴染んでいない読者、にも、という意味である。
だが短歌なら短歌には、独自の鑑賞の仕方があって、そのままでは難しい場合もある。
といってただ分かりやすくすればよいのではない。
読み手のことを意識して作る、という意見は正しいが、それも、文学的への興味によって導かれた、ある程度の教養ある読み手を対象として、ということで、対象を無知の人にまで引き下げる理由はない。
そうではなく、たとえば最も読者の多い小説というジャンルの読者になら、どうやって短歌を鑑賞してもらおうか、というような意味である。
はっきり言って、これ、という妙案があるわけではないが、試みとして、自分がやってみたことを宣伝交じりに記す。
私は『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』と『ファイン/キュート』というアンソロジーを編集した。
それら自体の選択は各々の本の理念によるが、双方とも、小説・詩・短歌・俳句・随筆をできるだけ均等に収録した(とはいえやはり小説が最も多くなりはしたが)。
作品を選ぶというとき、あるテーマによって決めるが、できるだけジャンルによっては分けない、という態度を私は実践し、推奨する。
いつも言うのだが、文学は小説だけ成り立っているのではない。
同時に別ジャンルが見渡せるやり方を多くの人がやればよいと思う。
それは一方、たとえば歌人であれば、小説はむろんのこと、詩、俳句、随筆、評論、戯曲、という「外の」ジャンルをも短歌と同じくよく知ろうとする意志の推奨でもある。
短歌を、「外の」人にも読んでもらいたいと願うなら、自身も「外」をよく知りたいと思うのが自然ではないか。
抑圧的な言葉として聞かないでほしい。どんなジャンルにも自分が愛せる作品はあるという希望を共有したいと言っているに過ぎない。
その意味で、催しの中、木下龍也さんに選ばれ、とはいえ短歌としてはそれほどでもないという意見もあったが、以下の歌、
人のセックスをわははわはははわははははははははははははは (加賀田優子・作)
上の歌のよさは認めたい。
これは短歌の世界よりも現代小説に親しんでいる人に向けてのジョークである。
私などは大笑した。むろん効きのよいジョーク以上ではない、という意見もあるだろうし、否定しないが、しかし、とにかく私のように常々は小説の方が主である者にとって、ともかくおかしいから◎
現代小説という意味では、山崎ナオコーラの作品題名だけ知っていれば「わはは」の歌はわかるが、それさえ知らない人にはわからない。
このあたりを私は境界とする。
「山崎ナオコーラくらいまでは知っている層」に向けて、短歌でも小説でも書くことが生産的ではないかと思う。
「山崎ナオコーラくらいまでは」というのは山崎ナオコーラなどを一例とする現代純文学の意味ね。できれば木下古栗くらいまで、とも言いたいがそこはやや難しいか。
純文学関係にある作家を全然知らない人を中心対象にするのはちょっとな、ということである。
ついでにもうひとつオタクな補足。
催しの中で、江戸雪さんが以下の歌、
ぬるま湯を粘土にかけて混ぜておりジャミラのように悲しい昼は (笹公人・作)
の、ジャミラについて僅かに言及されたが、ここで補足する。
ジャミラは肌が粘土のようで、しかも水をかけられると死ぬ。
ウルトラマンの指先から放水された多量の水を浴び、地に伏し、もがきながら死んでゆくジャミラの痛ましさ哀れさをも思い起こしつつ読みたい歌である。
しかもその泣き叫ぶ声には、赤子の声を混ぜて用いていた。
一度見た人には忘れがたい「ウルトラマン」中の不条理かつ悲しい一編である。
なお「ジャミラ」はフランス人の名で、もと人間である。自分を宇宙に見捨てた地球人に復讐しに来たのである。そして国際平和の名のもとに抹殺される。
こんなことは「ウルトラマン」を知る人には言うまでもない。
だが、会場にはここまでは知らなかった人も確かにいたと思う。
単に提出するだけではなく、読み手に親切な手引き、をめざすとき、それは「そんなこと知ってる」と言われるかもしれないややださい態度にもなるときがあるだろう。
でも、誰にも目こぼしなく、その面白さを示せるのなら、ださくてもいいじゃないか。
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