« 本日の文学話 | トップページ | 「いまとここと現代短歌」 »

有名・無名意識の軋み

ちょっと重いことだが一昨夜気になった件。
ある作家に関する権威と目されている人がその作家に言及していたら無知な人が「お前何様だ」と非難してきた。
それは無知だからだが、それだけでなく、「著名人・権威ある人でなければ言及するな」という意味合いもあった。
それに対して、言われた人は、「『無名者はものを言うな』というのは非生産的である」、と記していて、この人の考えには全面的に賛成である。
一方、この場合の有名無名の判断が、当人の乏しい知識のみでなされていることもさることながら、じゃあ君から見て発言してもいい人って誰か、と問いたくなった。
そこで当人に問いただせばよいかというと、既に語り合うに足りない人であることが確定しているので、無関係でいようと思った。
もし仮にその人から何かこちらへ物言い出してきたら直ちにブロックします。
だがそのことよりやはり心に残るのは、無名者にはものを言う資格がないという本人の勝手な決めつけだ。
それはどう見ても著名人でない当人にとって、じりじりと自分の身を焦がす苛立ちとともに発せられていると私は思う。
つまり「何様?」と問うたその人が、もともと「こんな無名な自分には誰も注目してくれない」ということにひどく不当感をいだいているため、逆に、「お前程度が私以上に偉そうにすんな」という攻撃として表出されてしまうということだ。
ここで大抵の人は「ああ、ダメな人だなあ」となるわけだが、しかし小説家なら、その捻じれに捻じれた、不機嫌な意識のあり方に、より近づいて考えざるをえない。
飽くまでも当人とつきあうのは嫌だが、その、権威が欲しい、そして権威がない(と思える)のに偉そうな奴を非難したい、という意識は他人事ではない。

正しさという意味では「無名者は黙れ」などというのは論外である。
だが、小説はその論外の愚かさを生じさせるものの跡を追うのだ。

なお、誰が見ても有名人である相手には「何様?」という攻撃は起こらない。
(無知ゆえの場合も含み)自分がその相手を知らなかったとき、「無名なのに不当だ」となる。
それは、富豪や大企業の税金逃れには何も言わないのに、生活保護を受けている貧しい人が僅かに多く得ていると聞くと徹底的に憎み非難する態度と似ている。

その人には、大きく強く著名で権威ある状態だけが「公に発言できる資格」であると認識されている。
実際にはそれが自分にないこと、そして自分はこの程度なのに、自分と同等かそれ以下(とその人に認識される)者が自分以上に発言することを許さないという意識がある。

一番平和な解決は、その人がその人の望むほど有名になり、みんなから尊敬されることだ。
そしてこの状態は結果として有名になった人だけが享受している。
そこには努力もあるだろうが他者には見えてこない。ただ運がよかった、ただ最初からよい立場にいた、とそんなことばかり目につくだろう。
ここで、権威を欲しがる人を、では、非難できるのか、ということになると、「そいつがクズなだけ」として終えるのもやはり、私には納得いかない。
権威や著名さの獲得には確かに不公平な何かによる場合もあると感じられるからである。

その不条理に負けてゆく人の愚かさと情けなさを小説としていつか存分に語りたい。

|

« 本日の文学話 | トップページ | 「いまとここと現代短歌」 »

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 有名・無名意識の軋み:

« 本日の文学話 | トップページ | 「いまとここと現代短歌」 »