「いまとここと現代短歌」
11/14は中野サンプラザで行われた「いまとここと現代短歌」という催しに出席した。
自分自身の短歌も過去数百首ほどあるが最近はあまり詠じていない。
が、それでもある一定の共有知識といくらか詠歌の錬磨を経ているので、自分がうまいか下手かは別として、よく通じる話と感じられた。
この共有知識と技法の鍛錬、そして読み方の経験は、その気があれば誰でも手にできるものである。
そのさい、「才能」云々も関係ない。短歌の世界に入りたいという意図だけでよい。
ただしそれらなしでは、そこに入ることはできても楽しくはなかなかならないだろう。
最近ではかなり薄くなった、と言うにしても、短歌の世界にはなるほど確かに外部との壁がある。
口語なら大抵わかるとしても、全く文語やら近代短歌・前衛短歌やらの知識を求める気がないと、長く居る人にはなれないだろう。
いつでも出ていける。しかし知と技を育めば楽しいらしいこともすぐわかるだろう。
少しだけ薄い壁に囲まれていることが短歌の愉しみであり、いつでも出ていけるが面白いから出ないでいる、というのが歌人なのではないか。
「進撃の巨人」のように外が地獄なのでもなく中にいないと死ぬわけでもなく、壁が壊れれば全滅するということもない。ただ好きでそこにいる。
そしてその薄い壁は、当人の意識によってより薄くもあるいはより厚くもなる。
どんどん濃い話をしたければ敢えて高く厚い壁を築いて、そこでよくわかる仲間とともに歌を詠み合い読み合うのもよい。
もっと高さを下げて、入れる人を増やしたいというならそれもよい。
だがその壁が全くないと考えたがるのは間違っている。
短歌は、そこに参加したい人がいくらか以上は学習するというプロセスを経てその世界を鑑賞し創作するものであり、たまにひどくポピュラーな詩歌が多くに読まれても偶然に過ぎない。それをのみ求めることに私は反対する。
ひたすらに開かれなくてはならない、という発想は、そもそもの文学自体の否定に通ずる。
私はあまりに「わかってない」「知ろうとしないままでよしとする」人たちと文学をやりたいとは思わない。
それらの最も基本にあるのは、楽しさの追求である。
シリアスな過酷さを重要視するあまり、傍若無人で無礼な発言を「野生のすばらしさ」などと持ち上げるのは間違いである。
文学の世界の「野生」は野生をよく演出できる技法という意味である。
当人の人間性の低さを誤って称賛してはならない。
ゲームのルールを破ることがよいのではない。それをおもしろく破ることができる人だけが達人なのだ。
一見重く厳しそうであっても、どこかに、読み手・書き手にとっての愉しみが見える営みでなければ、そこは早晩、人のいない広場になってしまうだろう。
私はいつも思うのだ、みんなで楽しくやろうぜ、そのためなら少々苦しくとも学ぶし練習する。
子供が野球を学ぶのとそれは変わらず、そこには抜かしてはならないプロセスがある。それあってこそ楽しめる。
一言付け加え。「楽しいければそれでよい」という意見にも私は賛成しない。本当に文学を楽しむということの得難さだけをここでは念頭に置いている。
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