あいかわらず文学について
いつも話が同じ結論になる人たちっていますね。
その人たちの幸福を侵害する気はないのでいちいち反論はしないが、傍で聞いていてうんざりげっそりするのも自分の場合事実なので、そういう「ああやんなっちゃった」の反動が私の文学でもあります。
そういえば父もその種のルーティーン会話がすごく嫌いで、ありきたりだけの世間話が好きでない人だった。
父は文学者ではないが、一般会社員にしてはとても文学に詳しかった。そういうところがうけつがれてるのだろうか、自分。
先日、「純文学心」といったのはこのあたり。かな。
本来は「文学心」でいいのだけど、ってそのときも書いた。
現生活上から少しだけ違う次元の言語空間が現出するような行為を私は文学と呼びます。
ただし文学・必ずしもオリジナルな言い方を尊ぶのではないという例。
以前、木下古栗に、新聞で繰り返し使われる言い回しには飽き飽きだなあ、って話をしたら、「お、それ、今度使いまわしたい」と彼は言った。敢えて紋切型の言葉を使ってそのことをおちょくろうとする意識に文学心を感じた。
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