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純文学心

純文学心。
本来なら「文学心」でよいのだが、あえて限定した言い方にする。「純文学なんて」っという人が今も絶えないから。
何を言うかといえば、エンターテインメント作家にも純文学心はある、ありうる、ということ。
じゃあそれは何かといえば、まず、同じことだけをやっていたくない気持ち。
あるジャンルで、そこでは必ず歓迎される、という王道があるとすると、いつもそれだけでいたいという人は案外多くないと思うがどうだろう。ちょっと違ったことをしたい、少し外してみたい、という気持ちはないだろうか。
それが純文学心だ。
特に前衛でなくてもよいし、世に言うジャンルとしての「純文学」だけでもない。
「純文学」っていうと、作者の思惑だけをもとにして読者のことなんか考えていない勝手な面白くない小説、と思っている人もいるかもしれないが、実はエンターテインメントの約束に飽きた読者にはとても面白く読めるものが多い。
それは、ルールにただ従わないでいじってみるという二次的な創作の意識があるからではないか。
純文学心の中のひとつのモチベーションは、二次創作的心性でもある。こういうのを全然持たないエンターテインメントを私はあんまり好まない。
こんなことを考えるのは、なんか「読者のために書く」とかいう言い方が嘘に思えるから。
それと「読み手を意識せず作家主体で書くなんてただのナルシシズムだ」などと言って安易にアート的な作品を非難するのも納得できない。
それらについて「こんな文脈があるからそこに従って批判する」、というのだとしたらそういうのが純文学心を阻害するものだ。
純文学心は既にある何かには従いたくない心である。
新しいことをしたい=純文学心、ということもできる。
そのためには一度は古いことを知らないとできないけれども、とはいえあまりに過去にとらわれる必要もない。
それより、大阪で言う「いらち」な気持ちがどこかにある。

今の自分にとって、ある未知の作品を「エンターテインメント」として差し出されること自体がちょっと残念だ。「未知の作品」でよいと思うのだが。
でもそういう言い方は商業的に成り立つ場ではありえないし、たとえ純文学でも「ほらこんなに面白い」という評判がないとなかなか本にはならない。
いや何か文句が言いたいわけではないのです。「純文学心」、これを「いいもの」としておきたいというだけ。
とてもよいエンターテインメント作品には「純文学心」があるということ、そしてジャンルとしての純文学作品だから常に「純文学心」があるとは限らないということです。

ところで以上は先日書いた町田康の「こぶとりじいさん」関連の発想だったと今わかった。
あれは、表現欲に先導されてどうしても踊りたくて踊った踊りが面白くて、踊って見せることによる報酬だけを目当てに踊った踊りはつまらなかった、という話に、町田版ではなっている。
よく言われる「作家になりたいから何か書く」のでは無理、「どうしても書きたくて、気づいたら作家だった」というのが作家の成り立ち、みたいな。実際の作家誕生がいつもそんなというわけでもないんだけどね。
とはいえ、下手だろうが見栄えが悪かろうが、何かしたいことがあってする、というのが、ものの本来だ。
確かにこういうのはあまり結果を意識してしまうといかんのです。もう何かに憑かれるようにして行うことはなるほど後から見ると成功していることが多い。
ただし、その現場では成功なんて考える必要もないくらい、「今やっていること」に懸命なのだ。
そういう場合、他者に見てもらうことすら、どうでもよくて、そうすると「読者のために書いてます」というのも、本当にそれでいいものになんの? って聞きたい気になる。

というわけです。

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