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すぐれた本・面白い本・くる本

京極夏彦さんが読書の有効性を認めつつも「本を読んだから小説がうまくなるわけではない」(趣旨)と言っておられた。身も蓋もない小説家の現場からするとそうなのだが、ひとまず小説家である場合には、読んで自分の小説が書ける本とそうでない本があり、前者を私は「くる本」と呼んでいる。

私にとってよい本とは、「すぐれた本」「面白い本」と「くる本」(それを読んでいると自分が書きたい小説が湧いてくる本)の三種であり、最近は「くる本」を求めることが増えた。

読むと評論が書きたくなる「くる本」もあるのだが、小説を書きたくなる「くる本」とは微妙に違う。なお、強く影響されてそれと同じような話を書いてしまうような場合は「くる本」ではなく「すぐれた本」である。「くる本」とはそこに書かれていることとは全然別の自分の事情を浮き彫りにする本のこと。

ある音楽を聴いてよい小説が書けたり、ある絵を見てそれとは違う場面のよい小説が書けたり、ダンスや映画や、思えば本に限らず、何か心を波立ててくれる表現があって、その言ってみれば波動みたいなのによって、テーマは全く異なる何かを書かされてしまうという得難い経験ということ。

インスパイア、というのとも違う、コーンと何かがぶつかることでそれまで気づかなかった可能性が見える、とでも言うか。必ずしもそれは「世界の名作」ではなく、自分にとって貴重な何かを発動させてしまうこと。本でも音楽絵画映画演劇等でも。

ところで(以下別内容)、来年7~9月が決め手の予定で、まだ先は長いがほぼ決定したので今年は快くいられる。三年前は困っていた。人事の交代はときに残念だが長い目で見れば必ず好意的な人が要職に就く時期が来るので無念なときは待つのみ。中堅から大手の出版社の話だが。と、この部分はこれでわかっていただける人にお知らせしました。

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なかよし のこと、妖怪のこと、批評のこと、など

健康で長寿、であればよいことですが、その一番の秘訣は なかよし ではないかと思うのです。 なかわる と いぢわる は寿命と健康を損ないますね。

水木しげる先生の93歳没は水木的にはとても早世であると思いますが、人間平均では長寿ですね。その水木先生は偉大だが聖人という感じはしない(妖怪だけど)。ただ、いぢわるをしたり、なかわるな相手を憎み続けたりということはあまりなかったのではと思う。

妖怪はもともとキャラクターではなく、江戸の絵師の絵をもとに水木先生がキャラクター的に描いたところから今の妖怪文化ができたものと認識していますが、もともと、「存在」というより「事象」であったものですから、原理的な行為や反復はあっても人間的な怨恨・悪意というようなものは薄かったはず。

それで怨恨・悪意の権化としては幽霊という人間意識由来の怪異が担うことになり、ここから妖怪と幽霊は別であるという認識も生じたのではないかと思う。もともとが妖怪に「人間性」はなかったので。

ただ、キャラクター化されてゆけばそこに「人臭さ」も付与されるわけで、最終的には人間ともあまり違わなくなってゆくことになる。そこを一歩とどめようとする工夫がその面白さで、たとえば人間的な妖怪を描くときにはそれでもどこか心が欠落した存在として描くとうまくゆく、とか。

ところで、サント=ブーヴ(小説・詩もあるが主に批評家・フランスの小林秀雄?)は、生前高く評価していたバーキエ公爵の死後、「本当言うとあんなの文学者扱いできない」と酷評した。それを聞いたゴンクール(作家・批評家)は「自分、死んだらあんたに追悼されたくない」と言った。(プルーストの報告による)

また、サント=ブーヴは、バーキエ公爵がアカデミー・フランセーズの会員に立候補すると言ったとき「少なくとも私はあなたに票を入れますよ」と約束したが、実際に立候補の際には別人の名を書いたという。ここには、批評家として世をわたってゆくに必要な言動と、自分の価値観の堅持のための裏工作が見られる。

一度でも文学的批評を公の場でやったことのある人には、単にサント=ブーヴを否定はしきれないと思う。本当に心から正しいと思うことだけをストレートに書こうすると、どんな業界でもいずれ干されてしまう。

じゃあ、周りが望むようなことだけ書けばよいではないか、という意見には、それができる人はライターとして優秀だし文句はないが、批評を公にしたいという人はそういうことから始まっていないので、それだけでは批評を書く意味がない。それでときに卑怯と言われるような騙し討ちもする。

でもそれは私の好きな なかよし の世界ではない。だから私は「批評家として商売すること」を止めた。

とはいえ、今も、あちこちで批評家の無念さは感じることが多い。特に不景気なときや全体主義的な風潮の大きいとき、批評家はあらゆる卑怯なことをしてでも、何かの意地は通さねばいられないのだ。言動に裏表があるとサント=ブーヴを嘲っていられる人は幸いである。

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