友田健太郎氏による「週刊読書人」1016年2/5掲載の文芸時評を読む
個々の作品への評価は読む限りとても明快で、李龍徳の「報われない人間は永遠に報われない」を私は読んでなかったが、この文を読むとこれから読んでみようと思わせられる。津島祐子の「オートバイ、あるいは夢の手触り」もそう。
だが最も重要な問題を提示しているのは後半の、男性作家が女性の一人称もしくは一人称にきわめて近い女性の三人称を用いて書くことへの批判のところだ。
ポリティカル・コレクトネス(最近はPCと書いてあって、え、パソコンがどうしたの? と思うことがあるので私は基本略さないで書きたい。ただし字数の限られた場では仕方ない。それとこの言葉が政治・社会的に公正・公平とかいう意味であることをよく意識する人が未だ案外少ない気もする)については今回、触れない。ともかく前提としては小説では誰が誰の言葉を用いるのも自由ということとしておく。
その場合、問題は、分かり易い部分でまず二つある。
ひとつはその男性による作品内の女性としての言動が女性になりきっていない場合。「こんな言い方はしない」「こんな態度はとらない」等、知識・技の不足・勉強不足ということになるから、もし極めたければ信頼できる女性にすべてをチェックしてもらう必要があるだろう。谷崎潤一郎は「卍」を書くさい、関西弁に関する徹底指導を受けている。問題としてはそれと同じだ。これについては、いくつか失敗があっても後から直すことはできる。
もうひとつはその男性が「もともとわかってない」場合。女の口を借りればうまくゆくだろう、という安易な期待だけがあって、女性であることの本質的な問題、社会的な姿勢や有利不利、心の機微を真にわがものとして意識していないため、「男による勝手な女性像」が語られることで、女性たちはうんざりする。この場合はもうむしろ、木下古栗みたいにわざとその駄目さを精緻に演出して馬鹿さを丸出しにしてみせるという方向があるのみで、もしその「わかってない」男性が真面目に女性の口を借りようとしているとしたら、彼にはもともとそうする資格はなかったということだ。
だが、このような比較的単純に判断できる部分以外にもっと考えるべき問題がある。友田氏はそこを指摘している。以下、友田氏の言葉を引用する。
男性作家が作品に女性の「声」を使いたがる心情は分かる気もする。いま日本で男性として生きるということには、興ざめなものがある。女性が差別や偏見、セクハラなどと闘い、一歩ずつ地位向上を勝ち取っている中で、ことに創作に携わる身であってみれば、男性であるばかりに何か本質的な体験ができずにいるのではないかと疑わざるを得まい。古臭い制度がもたらす社会的優位性があったとしても、そんなものは創作者としての成功を保証してはくれない。
いま男性の周辺には面白いことなんか一つもない。男性は、そのままの姿では生き延びられない絶滅危惧種そのものだ。女性を語り手にした方が、今の日本ではよほど面白い小説になると男性作家が思ってしまうのも無理はないのである。
引用以上。
よく言ってくれた、とまず思う。非常に正確に、男性作家が女性の言葉を用いようとする意識を語ってくれている。「そのままの姿では生き延びられない」という認識もおそらく正しいと思う。
これだけよく事情をわかってくれているからこそ、続く結論が重みを持つのだ。以下、友田氏の言葉を引用する。
しかしだからこそ、男性作家には、自分の中の、情けない、つまらない、興ざめの、ちっぽけでしなびた男性性から目を離さないでほしいのだ。どんなにくだらなくても、それがあなた方の持ち場なのだ。もちろん私の持ち場でもある。要は居直りだ。だが、本当に面白い小説なんて、そこからしか生まれようがないだろう。
引用以上。
やはり正しい。この論理による限りもはや、逃げようはない。
そして、これを読めば、古井由吉の独語的小説群をひとつの範とする私としても、ならば擬態することはやめ、全身苔むした雄ナマケモノか、皺に埋もれ怪異な顔をさらす雄のオランウータンのようなあからさまな者として、そこに湧いてくる言葉だけを続けていこうかと、ふと、思わせられてしまう。しかもそれはとても気楽で、私にはむしろそのこと自体が救いになるのだ。
本当はもっと著名なよく読まれている作家の例で語れるとよいのだが、残念ながら自作で言うなら、「闇の司」「町の底」「呪い田」「樹下譚」「日の暮れ語り」「遍歩する二人」「記憶の暮方」「クリスタリジーレナー」「林檎料理」「出勤」、等々、どれも年齢はいくらか違っても、ともかく男性の声で、男性の視線で語ったもので、そこには今回『文學界』2016年2月号に掲載された「リスカ」(女子高校(中退)生の一人称による)を書きながら感じた極度の危うさ、難しさはない。
だからもう女性の言葉を借りるのはやめようかと、一度は考えてみたのだが、ただ、友田氏の意見が正しいという意味とは別に、作家はもっと不正で愚かで常に手探りで書く者だ、という意識が私には捨てられなくて、それで、やはり、常にではないが、この先も、女性の言葉を借りた小説を書くことだろう。なんだ、せっかくのよい意見を耳にしながら、それでは何も読んでいないと同じではないかと言われるかも知れないが、友田氏の見解を知る前と後とでは私には大きな違いが感じられる。
きっと私のやっていることは過ちなのだ。そう感じられたからだ。
「リスカ」では一度は女性のチェックを入れてもらっているので、言葉遣いや主人公の行動にそれほど大きな不自然はないはずと思う。あれば直すまでだ。それよりも、ある女性から、その若い女性の意識の追い方に共感できたと言われもしたので、そこに「都合のよい女性像」のようなものが感じられないとしたら、前記した二つの点からある程度、存在を認められるものと思う。
だが、友田氏的にはこの語りは「男性であること」からのただの「逃げ」であり、生の真実を突いていないということになる。それが真か否かは私には判断できない、作品への解釈なので、そう読まれたとすれば全面的に認めざるをえない。だとすれば、私は、今回、誤ったのだ。失敗したのである。
ところが、そうすると私はこういうとき、寺田寅彦の、「科学者になるには頭がよいとともに頭が悪くなければならない」という言葉を思い出すのだ。科学者になるには科学的な頭の良さは必要だが、同時に、鋭く先を見通してすぐあきらめたり方向転換しないまま、十年一日のごとく実験を繰り返し、予め間違いと分かっていても必ずやってみてそれを確認する、そういう頭の悪さ(鈍さ)が必要なのだ、その退屈さに耐えられる人が科学者になれる、そして実は、常にではないが、新たな発見や理論はそういう地道なところから見出されるものである、というような意味である。
私は作家であって科学者ではないが、この点は同じ事と思う。作家であるために必要なことはどんなに誤っても書き続けることだ。予め過ちとわかっていてもそれを書いてみることだ。そしてそれが面白い過ちとなるなら成功なのだ。
詭弁と言われるだろうか。しかし、正直なところ、小説そのものが過ちの記録であることが私には前提なので、作者として書く姿勢の部分が誤りと指摘されてもさほど残念ではない。
じゃあ次は男の言葉でやってみます、とは言える。
だが気が向いたらやはりまた女性の一人称でやってしまうだろう。
この私の態度には、あるいは友田氏とは相反する、小説というものへの見解の違いがある。
友田氏は「男性であるばかりに何か本質的な体験ができずにいるのではないかと疑わざるを得まい」と書いた。体験、という意味から、女性の言葉を借りることがごまかしである、体験していない女性のあり方を自分のものとして書くことは欺瞞であり価値が低い、と言うのだ。その虚構の考え方に、私との差があると思われる。
私にとって、小説とは虚構でなければならず、ドキュメントであってはならない。言葉による「事実の記録」はもう既に事実からの言語的な翻訳に伴う虚構が含まれるが、しかし、それでも必ず「事実」を神として従うのがドキュメントである。しかし小説は、まず何を言うのも嘘である、というところから始めたい。だから、男が女のふりをして語るならその嘘を徹底していればよく、語られた作品に何かの見どころがあれば作者の性別は問うべきではない。
問題は、現在、ヘテロセクシュアル・ノーマルな男性が女性の語りをやろうとすると大変失敗しやすい、ということなのだ。彼はおそらく何かをわかっていないからだ。またそうして面白くなかったのであれば全くそれは無価値な小説である。
だから今回の私の「リスカ」も過ちである、といわれるならそれでよい。かつ、面白くなかったと言われればすみませんと言うだけだ。
だが、小説は、まず口からでまかせを書くのが本態と私は思う。次から次へ、言葉にそそのかされるまま語るとき、作者はもう自分の所属などどうでもよくなる。ただし、初動での方向はその後を大きく決める。今回は女性の言葉でやってみよう、今回は関西弁でやってみよう、あるいは今回はニートで、あるいは今回はネトウヨで、今回はリベラルで、中年男性で、老女で、動物で、物で、等々、初動だけは意識的に決める。あとは、そのスタイルがもたらすまま、語りたいと思う。性別と社会的位置とは等価なのではないが、この立場をとる場合、交換可能的な想像として見られている。そこを欺瞞と言われるなら仕方ない。だが、未体験のことを書くな、と言われると残念になるということだ。
そうして語っているうち、あるところで、全く嘘なのに、どうしても逃れられない切実な何かが語られてしまうことがある。それを私は小説の真実と呼ぶ。
小説の面白さは、前提として全面嘘なのに、どうしても忘れられないリアリティが生じるところにあると思う。そういうところがある小説がよい小説である。
むろん、徹底的に現実に沿って書かれ、そこからリアリティをくみ上げる小説もある。私小説がその極みではないか。そして、友田氏の言うような、どこまでも自分の居場所を忘れないで書かれる小説というのは、最終的には私小説をめざすことになるのではないか。
批判ではない。友田氏的な方向性はそうではないか、と考えただけだ。
いやそれほど狭くはない、と言われるとは思う、だが徹底的に自分の位置を意識し、体験を重視するとすれば、ときに虚構の排除という選択肢も大きく出てくる。それはかつての私小説の理想であったし、また、古井由吉氏は、そのようにしてどこまでも嘘を捨てていくうちに、どうしても捨てられない嘘が出てくる、そこが面白い、と書いておられた。
つまり見方が全く逆方向なのだ。だが、おそらく、友田氏も私も、優れた小説とするものが大きく違うことはなく、それに出会えばおそらく同じように反応すると思う。
なお、友田氏が今回高く評価しておられる「耳つきの書物」の作者・長野まゆみは、「少年アリス」という自分の性別とは全くかけ離れた少年(しかも完全な虚構的少年)を語る小説でデビューし、それを江藤淳から、「作者が自己の位置を見せない作品」(概略)というような批判を浴びた(と記憶、少なくともその架空性を強く批判されたのは確か)。しかし長野氏は、何を言われても自分の書きたいものだけを書き続け、そして今の境地がある。自分もそうありたいものと思う。
だがともかく友田氏の批判は大変胸に刺さった。忘れない。こういう「刺さる批判」だけが公に書かれるに値する批評ではないかと思う。その意味で私は友田健太郎という批評家を信頼する。
以上、友田健太郎氏による「週刊読書人」2016年2月5日号掲載の「文芸」(文芸時評)を読んで考えたことである。
たまたま先月の「文學界」に掲載された自作が友田氏の否定する方向の作品であったため、自分にばかりひきつけて考えたので、随想であって批評にはなっていないが、とはいえ、ある何かの思考の資にはなると思い、ここに記す。というもっともらしい理由は嘘で、正直に言えば、こういうことを考えたのでみなさん読んでください。
以上は今後、読み直して訂正することがあります。
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